信濃国佐久郡の国人領主。越前守。
この大井氏は清和源氏の小笠原氏の流れを汲み、小笠原氏の祖・小笠原長清の七男である朝光が信濃国佐久郡の大井を領したことから大井氏を称したもので、甲斐国大井郷を本貫地とする武田系大井氏とは別の系統である。
応永23年(1416)に信濃守護代・大井光矩(持光との続柄は不詳)が没すると、その家督を継承した。
永享7年(1435)頃より、小県郡から佐久郡に進出してきた国人領主の依田(蘆田)氏との緊張が高まり、翌年には幕府の意向を受けた信濃守護・小笠原政康の後援を得て依田氏を降し、長窪に城を築いて支配の拠点とした。
永享11年(1439)、永享の乱に敗れて自害した鎌倉公方・足利持氏の遺児のひとりである足利永寿王丸(のちの足利成氏)を保護し、翌永享12年(1440)に永寿王丸の兄である足利安王丸・春王丸兄弟が下総国結城城主・結城氏朝に迎えられて挙兵(結城合戦)すると、結城方を支援するために軍勢を差し向けようとしたが、途次の碓氷峠で上杉重方(関東管領・上杉憲実の弟)に阻まれて失敗したという。
大井氏はこの持光の時代に全盛期を迎え、佐久郡の大半を支配下に収め、その所領は6万貫に及んだという。
持光は生没年不詳であるが、応仁元年(1467)には嫡男の政光が大井氏の主体となっていたようで、この頃までには死没あるいは引退していたと思われる。