永享(えいきょう)の乱

足利将軍家の一門として関東地方を治める鎌倉公方の第4代・足利持氏は野心家だったようである。本家にあたる室町幕府将軍家とは事あるごとに対立し、あわよくば自らが将軍位に就くことを望んでいたふしも見受けられた。
応永24年(1417)に上杉禅秀の乱が鎮圧されたのちには上杉禅秀に加担した武家の討伐を企て、応永29年(1422)閏10月には山入与義、応永30年(1423)8月には宇都宮持綱を討っているが、彼らは『京都扶持衆』と称され、幕府に直属する武士であったことから4代将軍・足利義持との関係は険悪なものとなった。
応永32年(1425)2月末、義持の子で5代将軍であった足利義量が没すると、次期将軍位を窺ってのことか、同年11月には義持の猶子になることを望んだが拒絶され、義持の没後に足利義教が6代将軍位に就くと反目した。永享6年(1434)3月18日付で鶴岡八幡宮に奉納された持氏の願文は朱墨に血を混ぜて書かれた『血書願文』と呼ばれ、願文中にある「呪詛怨敵」とは将軍である義教を指している、とされる。
また、永享8年(1436)には鎌倉府の管轄外である信濃国の守護・小笠原政康と国人領主の村上頼清の対立に介入し、村上氏を支援するために軍勢を派遣しようとしたが、関東地方統治の補佐役である関東管領・上杉憲実によって阻止されている。翌永享9年(1437)4月に持氏は再び信濃出兵を企てたが、実は憲実を討つためのものであるとの風聞が流れ、これに対抗して憲実派の将士らが諸国から参集したために鎌倉は騒然となり、憲実も関東管領職の辞任を表明して強硬な姿勢を崩さなかった。結局は持氏が折れて憲実も関東管領職に復帰したためこの騒動は沈静化したが、両者の間の溝は未だ深く、不和は解けなかったのである。

この2人の決裂が決定的となったのは永享10年(1438)6月、持氏の嫡子・賢王丸の元服に際してのことである。
慣例では、鎌倉公方は元服の際に本家である将軍から名前の一字を拝領するはずであった。しかし持氏は将軍の義教にそれを求めず、賢王丸を義久と名乗らせたのである。しかも「義」の字は将軍代々の名乗り(通字)であり、これまでの鎌倉公方は「義」の字を避けて名乗ってきている。義久という名乗りはそれを無視し、公然と将軍に反抗する姿勢を表すものと受け取られかねない。
憲実は慣例に従うよう諫めたが持氏は耳を貸そうともせず、義久の元服式を強行する。さらにはこの式に際して持氏が憲実を成敗するという風聞が流れたため、警戒した憲実は病気と称して式への出仕を見送ったのである。
こののちにも持氏が憲実を討伐するとの巷説が流れ、これを聞いた憲実は「忠義として(持氏の)誤りを正そうと諫めたが、それを不忠として討たれることは末代までの恥辱である」と嘆き、自害しようとしたという。この自害は憲実の近臣によって止められたが、憲実は8月14日に鎌倉を離れ、所領の上野国平井城へ帰っていったのである。
これを知った持氏は8月15日、配下の一色直兼・持家らに憲実の討伐を命じ、翌日には自らも軍勢を率いて武蔵国府中の高安寺に向けて出陣した。
一方、幕府では持氏と憲実が衝突することを早い段階から見越していたようであり、7月下旬から8月初旬にかけて、駿河国の今川範忠や南陸奥の伊達持宗・白川氏朝・石橋義久らに、憲実を支援するための出兵準備を命じている。8月22日に持氏討伐のために犬懸上杉教朝(上杉禅秀の子)を大将とする軍勢を派遣し、さらには8月28日付で後花園天皇より『持氏討伐』の綸旨を得たため、憲実・幕府方が「官軍」、持氏方が「賊軍」との位置づけが成されることとなり、即座に幕府軍が編成された。
総大将は上杉持房とされ、関東地方以外では越前国の朝倉氏、美濃国の土岐氏、信濃国の小笠原氏なども出陣を命じられている。

9月になると上野国で憲実軍と一色軍、駿河国や相模国では幕府軍と持氏軍の戦闘が始まった。9月7日には信濃国から出陣した小笠原政康率いる軍勢が上野国に在陣する憲実に合流し、同月中には憲実軍が一色氏に率いられた持氏軍と戦って勝利している。また、東海道経由で進んだ幕府軍2万5千は9月初め頃までには駿河国、10日には相模国の箱根山で持氏軍と戦い、27日には小田原に進撃。これを受けて持氏は、幕府軍への迎撃を優先して29日に武蔵国から相模国の海老名へと陣を移している。
そして10月、情勢が憲実・幕府方に大きく傾く。憲実・幕府軍の勢いに、持氏方で鎌倉御所の留守を預かっていた三浦時高が10月3日に鎌倉を放棄して領国へと退いたのである。また、4日には上野国の一色軍が退陣し、持氏が陣する相模国海老名へと引き上げた。これを受けて憲実軍は6日に鎌倉へ向けて進撃を開始し、19日には武蔵国の分倍河原に着陣した。これを知った持氏陣営では投降する者や寝返る者があとを絶たず、わずかに残ったのは譜代の近臣や宗徒などだけだったという。
しかし、憲実軍はここで進軍を停止する。主君である持氏を討つことへの躊躇であろう。だが、そんな憲実の思いとは裏腹に、幕府方優勢の流れは止まらなかった。先だって鎌倉防衛を放棄した三浦時高が、11月1日に鎌倉に攻め入って御所を襲撃したのである。
同じ日に憲実は家宰の長尾忠政を鎌倉に向けて派遣しており、翌2日に鎌倉を目指して敗走する持氏と相模国葛原で遭遇した。この両者で協議が持たれ、持氏が讒臣を退けるという約束で鎌倉に護送されることとなり、永安寺に入った。4日には憲実の所領である武蔵国六浦荘金沢の称名寺に移され、翌5日に出家して道継と号す。7日には持氏の近臣が自害、あるいは抵抗して討たれ、11日に持氏は再び永安寺に戻された。
軍事的にも政治的にも、持氏の敗北であった。

憲実としては、これで幕引きとしたかったのではないだろうか。しかし、幕府は憲実に対して持氏父子を自害させるように迫ったのである。
これを受けて憲実は、幕府に使僧を派遣して持氏父子の助命を願い出たが、将軍・足利義教はこれを赦さないどころか、持氏父子を誅伐しなければ憲実をも罪に問うという強硬な態度を示したのである。
やむなく憲実は上杉持朝千葉胤直らに軍勢をつけて持氏のいる永安寺を攻めさせ、持氏を自害させたのである。永享11年(1439)2月10日のことであり、かつて稲村公方と称され、持氏陣営に属していた足利満貞もともに果てた。また、報国寺に捕らわれていた持氏の嫡子・義久も2月28日に攻められて自害した。