今川範忠(いまがわ・のりただ) 1408〜1461?

今川範政の長男。応永15年(1408)5月に生まれる。通称は彦五郎。民部大輔・上総介。駿河守護。
父・範政はその晩年に次期家督を長男の範忠ではなく、「未来器用」を見込んで末子の千代秋丸(のちの小鹿範頼)に譲ることを希望していたが、幕府はこれを許さなかったため決着せず、これを気に病んでのことか範忠は永享4年(1432)6月に遁世。この様子を今川一族の今川貞秋が「器用不便」と評しているが、これは「器用不足」とも、あるいは「器用不憫(相続者として除外されていることを不憫とする)」とも解釈できるが、将軍・足利義教は一貫して範忠を支持している。
この次期家督の問題は永享5年(1433)4月より範忠の次弟・弥五郎(小鹿範勝)も絡むようになり、範忠を義教が、弥五郎を細川持之が、千代秋丸を山名時煕が推したため混迷が深まり、同月末には便宜の措置として弥五郎が任じられたりもしたが、駿河国の国人領主らからの批判や義教の立腹などもあって撤回され、範政死没後の6月に至って範忠の家督継承が正式に決まった。これと併せて駿河守護職と民部大輔の官途を任じられている。
同年7月に駿河国府中に入部するも、入部に反対する狩野・富士・興津氏ら国人領主が一揆を結んで反乱を起こすと、これを鎮圧して駿河国の支配を安定させた。
鎌倉府の管国を扼す駿河国を領する範国は関東の監視を怠ることなく、永享10年(1438)8月に永享の乱が勃発すると、幕府の命を受けて関東管領・上杉憲実を支援するために出陣し、相模国戦線の大将として鎌倉公方勢を撃破し、幕府軍総大将の上杉持房と合流して鎌倉に攻め入った。この戦功として将軍・義教より、「今後は惣領家のみが今川の家名を名乗れる(天下一苗字)」旨を恩賞として与えられたという伝承がある。
また、永享12年(1440)の結城合戦にも幕府軍として参陣するなど、一貫して幕府方の先兵として活躍した。これらの忠節に感じ入った義教は、範忠を副将軍に任じたという。
のち、領国経営に努めるとともに、かつての今川氏領国であった遠江国への進出を目指したらしく、嘉吉元年(1441)閏9月には遠江国への侵略を遠江守護の斯波氏から詰問されている。
享徳4年(=康正元年:1455)、鎌倉公方・足利成氏上杉憲忠を誘殺したことによる関東の混乱(享徳の乱)に際しては幕府から足利成氏討伐の大将に任じられ、同年6月に再び鎌倉に攻め入った。このときも駐留軍の司令官的な立場にあったようである。
和歌を嗜み、今川了俊の三十三回忌に追善の和歌を詠んでいる。
寛正2年(1461)3月に家督を嫡男の今川義忠に譲り、同年5月26日に没したとされる。享年54か。法名は宝処寺殿不二全公大禅定門。嘉吉元年(1441)や康正元年に没したとする説もあるが、発給文書が康正3年(1457)まであることや、活動の軌跡によって否定される。