享徳(きょうとく)の乱

第4代鎌倉公方・足利持氏は野心を顕わにして関東を手中に収めんとしたが、それを諫めようとする関東管領・上杉憲実と不仲になり、上杉氏と持氏勢による争乱が勃発した。しかし持氏は永享11年(1439)2月、幕府に支援された上杉氏を中心とした諸勢力の攻撃によって滅亡した(永享の乱)。
その後、結城氏朝ら持氏派だった武将が持氏の遺児である足利安王丸春王丸兄弟を推戴して下総国結城城に籠もって徹底抗戦の構えを示したが、これも嘉吉元年(1441)に幕府の命を受けた上杉氏らの攻撃によって滅亡させられた(結城合戦)。
持氏の死後、鎌倉公方は不在のままとなっていたが、結城城の落城直後に強硬な鎌倉公方抑圧策を取っていた6代将軍・足利義教赤松満祐に謀殺される(嘉吉の変)と、関東の情勢を安定化させるために鎌倉府の復活が企図され、持氏の遺児・永寿王丸を新たな鎌倉公方とすることが決定された。信濃国に潜んでいた永寿王丸は文安4年(1447)に鎌倉に迎えられ、元服したのちは足利成氏と名乗り、ここに鎌倉公方の復活が実現したのである。
こうして再興された鎌倉府であったが、公方・足利成氏と新たに任じられた関東管領・上杉憲忠(上杉憲実の子)を頂点とする両派の対立構造は永享の乱当時となんら変わるところなく、不安定な情勢は続いていたのである。
はたして鎌倉公方派と上杉派の対立は再燃し、所領問題をきっかけとして上杉氏の被官である長尾景仲・太田資清らが宝徳2年(1450)に武装蜂起したことを受けて、成氏は江ノ島に退避して迎撃態勢を布いた(江ノ島合戦)。この抗争は幕府の調停で和解となったが、その後も公方派武将の横暴ともいえる行動から対立は深まる一方であった。
また、中央政府である幕府内においては享徳元年(1452)に管領が畠山持国から細川勝元へと代わり、この勝元が憲忠を擁護する言動を示したこと、またこの頃には従来の鎌倉公方の権力であった鎌倉府領国内の知行・課税・裁判といった主要政務の実権のほとんどが幕府によって掌握されており、享徳2年(1453)頃に至っては、成氏から幕府へと申し入れをする際には関東管領(上杉憲忠)の副状(添状)が必須という状態となっており、幕府は鎌倉公方の権力を衰退させると同時に関東管領を通して関東の直接支配に乗り出すという姿勢を見せていたのである。
これに危機感を抱いた成氏は、享徳3年(1454)12月27日に上杉憲忠を謀殺。これによって、鎌倉公方派と上杉派が関東を二分しての全面対決が再び起こることとなった。

以後、翌享徳4年(=康正元年:1455)1月21日に武蔵国府中に侵攻した成氏率いる軍勢が扇谷上杉顕房・犬懸上杉憲秋らと激突(分倍河原の合戦)、また翌1月22日には相模国において上杉持朝ら上杉勢と一色直清・武田信長ら公方勢が激突(島河原の合戦)したことを皮切りとして、広く関東の各地で戦闘が開始されることになる。
緒戦となるこの2つの合戦ではいずれも公方勢が勝利し、北関東進出への足がかりを得ることとなったが、その一方では幕府でも憲忠横死の情報は早々に掴んでおり、1月半ばには上杉氏支援の準備を始め、3月末頃には後花園天皇から成氏討伐の錦旗を得た。これで成氏は『朝敵』と位置づけられることになったのである。
幕府は討伐軍を組織し、在京していた憲忠の弟・上杉房顕を関東管領に任じるとともに成氏討伐の総大将として関東に帰還させ、越後守護・上杉房定や駿河守護・今川範忠にも出陣命令を下した。
この頃までは成氏勢が戦況を有利に展開していたが、成氏が朝敵とされたことを受けて上杉方へと鞍替えする国人領主たちが相次ぎ、それぞれの思惑を胸に関東一円を舞台として成氏派・上杉派に分かれて各々に戦うことになったのである。

6月の中旬になると今川範忠が成氏不在の鎌倉に攻め入った。今川勢は鎌倉を奪取することに成功したが、この戦闘の際に街に火を放って鎌倉に留め置かれた守衛軍を攻め立てたために鎌倉は「亡所となり、田畠荒れ果て」たという。
鎌倉が陥落したことにより、上杉勢を追撃して北関東に在った成氏は鎌倉を捨て、以後は下総国古河に拠ることになったために古河公方と呼ばれることになる。古河の周辺には野田・簗田・佐々木などの直臣を配して防衛網を布き、岩松・結城・小山・宇都宮・千葉などの豪族層の支援を受けて長期戦に備えた。
対する上杉方は利根川南の武蔵国五十子の地に成氏攻めのための本陣を構え、幕府派遣の将士もここに布陣した。さらに松山・河越や岩付・江戸など武蔵国各地の諸城を築き、防備を固めた。

また長禄2年(1458)、幕府は成氏に対抗するために8代将軍・足利義政の弟である足利政知を新たな関東公方として派遣したが、現地の上杉方は政知の鎌倉入りを望まなかったため、伊豆国の堀越に居を構えて堀越公方と呼ばれるに至る。
乱はほぼ利根川を挟んだかたちで戦線が膠着化するなか、寛正7年(=文正元年:1466)に上杉房顕が五十子陣中で病没したことを受けて越後守護・上杉房定の子である上杉顕定が関東管領となり、房定は以前にも増してしばしば関東に出陣して顕定を支えた。ところが、上杉方を支援していた幕府においても細川勝元と山名宗全を両極とした2派に分かれて分裂を起こし、文正2年(=応仁元年:1467)に武力衝突が発生した(応仁の乱)ため、関東・京都ともに争乱状態となったのである。
この間、京都では享徳・康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明と6度の改元が行われているが、幕府に反抗する成氏のもとには朝廷や幕府からの伝達がなく、成氏も幕府と全面対決する姿勢を内外に示すために中央政府の元号使用を拒否した。そのため、成氏方勢力には享徳の年号を使用し続けた発給文書が見られる。

文明3年(1471)5月には上杉勢が大攻勢をかけて成氏を古河から逐い、その翌年には成氏勢が古河を奪還、文明5年(1473)11月には逆に成氏勢が上杉勢の拠っていた五十子陣を攻撃するなど一進一退の攻防が続けられていたが、同年6月の山内上杉氏の家宰・長尾景信の没後、山内上杉顕定がその後任に景信の弟・総社長尾忠景を指名したことにより、これを不服とした景信の嫡男・長尾景春が居城である上野国白井城に退くという事態になった。
さらにはこの景春が文明8年(1476)6月に武蔵国鉢形城に拠って決起し、翌文明9年(1477)1月には五十子の陣を急襲(五十子の合戦)。五十子に在陣していた諸将らは不意を衝かれて抵抗できず、各方面に退去したため五十子陣は解体した。この景春に、かねてから上杉氏への不満を持つ中小領主らも与同したため上杉陣営を大きく揺るがす内訌となり、関東の情勢は新局面を迎えることとなった(長尾景春の乱)。
新たな勢力として立った景春は成氏と結んで上杉氏に対抗するが、上杉勢が扇谷上杉氏の家宰・太田道灌の活躍によって文明9年4月の武蔵国江古田原・沼袋の合戦、5月の武蔵国用土原の合戦において景春勢を破ったことで勢力を大きく盛り返し、景春の勢いは衰退していくこととなる。
それを受ける形で文明10年(1478)1月には古河公方と上杉氏の間で和睦することが約され、さらに文明11年(1479)頃より幕府と鎌倉府においても和睦が模索されるようになり、文明14年(1482)11月末に至って講和が成立(都鄙合体)し、享徳の乱は終息するに至ったのである。

この享徳の乱が起こるに至った背景には、古河公方(関東公方)と幕府を後ろ楯とした関東管領・上杉氏による権力闘争があり、先に起こった永享の乱と同じ構図として見ることができる。しかし、この乱においては古河公方と幕府・関東管領という両勢力の闘争に加えて、鎌倉府分国に属す国人領主らの内紛もが絡みつき、さらには堀越公方や長尾景春といった新勢力の参入もあったために一層の複雑・長期化を見ることになった。
この内乱の進行とともに、豊島氏・千葉氏といった国人領主や中小領主層においても主家と庶家に分かれて抗争に及ぶという二極化が進行し、そこに公方または上杉氏が肩入れをしたために政治的あるいは地域的な分裂が起こり、都鄙合体後にも遺恨を残す結果となった。
これは全国規模で分裂闘争が行われた応仁の乱と同質のものであり、それより10年以上早く関東地方で発生したこの享徳の乱は、まさに戦国動乱時代の先駆を成すものということができよう。