上総国武田氏の祖。甲斐守護・武田信満の二男。武田信重の弟。通称は八郎。右馬助。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱においては父・信満と共に禅秀方に与して鎌倉府に対抗しており、敗走した信満が翌年に自刃すると信満の子・信重や信満の弟・信元は高野山に逐電、信長も国外に逃亡した。
守護である武田氏一族の有力武将が不在となった甲斐国では、守護代・跡部氏と自立を目指す国人領主とで争う内乱状態となり、時期は不詳だが帰国した信長は跡部氏方として参戦している。
国人方では逸見有直が伸張しており、逸見氏は鎌倉公方・足利持氏を後ろ楯に恃む一方で、応永25年(1418)に幕府より甲斐守護に補任された武田信元が信長の子・伊豆千代丸を嗣子としていたことから、この内乱は信長にとっては鎌倉府に抗する叔父と実子を援助する戦いであり、大局的には幕府勢力と鎌倉府勢力の代理戦争であったといえる。
信元死去後の甲斐守護職は信長の兄・武田信重が継承するが、国人領主らから入国を拒まれたため、信長が甲斐国に在って守護方の有力武将として鎌倉府勢力からの防衛にあたった。
信長は甲斐国都留郡の国人領主・加藤梵玄入道らと結ぶなどして数度に亘る鎌倉府勢の猛攻によく戦ったが、応永33年(1426)7月に持氏率いる大軍に敗れ、8月25日に降伏して鎌倉府に出仕することとなった。
しかし永享5年(1433)3月1日、専横を揮う守護代・跡部氏を排して伊豆千代丸を援助するために鎌倉を出奔したことが持氏の怒りを買うことになった。
当時甲斐には輪宝一揆(りんぽういっき)と日一揆(ひのいっき)に結集する国人勢力があり、前者は守護代・跡部と結び、後者は伊豆千代丸と信長に与した。しかし信長に昔日の勢いはなく、同年4月29日からの荒川(から川)の合戦に大敗し(このとき伊豆千代丸の死も推定される)、日一揆の吉田・矢作・河内・仁勝寺・山県・柳沢・山寺・長塚・中条らの諸氏が討死したが、信長は駿河国に逃れた。
この信長の行動は持氏に対しての背反行為であるが、幕府は持氏を牽制したいという思惑から駿河国に所領を与えて信長を保護し、持氏が鎌倉府の分国ではない駿河国に出兵することを非難している。
その後の動静は不詳であるが(翌年に再び甲斐国に侵入して跡部氏と戦ったが、退勢を挽回できずに駿河国から京へと退去したとする説もある)、永享12年(1440)からの結城合戦に幕府方として出陣しており、その戦功として相模国曾比郷などに所領を与えられた。
宝徳元年(1449)9月に足利成氏が鎌倉公方に就任すると出仕して重用され、以後は甲斐国の政情に関与することなく、一貫して成氏に従っている。
宝徳2年(1450)の江ノ島合戦で相模国七沢に逃れた関東管領・上杉憲忠を帰参させる使者を務め、享徳の乱が勃発する引き金となった上杉憲忠の襲撃にも関与するなど、鎌倉府における信長の地位は高かったと見られている。ついで享徳4年(=康正元年:1455)1月には相模国島河原で関東管領勢と戦うなど、公方方の有力武将として各地を転戦した。
のちに成氏が鎌倉を退去して下総国古河に移ると信長も同行し、上総国に侵攻したのちは上総守護代に任じられたともいわれ、丁南城と真里谷城を拠点として領国経営にあたった。
生没年ともに不詳であるが、史料で存在を確認できるのは寛正元年(1460)までであり、文明9年(1477)4月6日死去とする説がある。法名は勝福寺殿春克妙甲か。