長尾氏は関東管領・山内上杉氏の家宰を務める家柄であったが、文明5年(1473)6月に白井長尾氏当主・長尾景信が没すると、山内上杉顕定は家宰職に景信の弟で、惣社長尾氏の名跡を継いでいた長尾忠景を指名した。これに憤慨した景信の子・景春は文明8年(1476)6月、武蔵国鉢形城に拠って叛旗を翻すに至ったのである。
この景春の離反に際し、足利長尾房清や上野国の国人領主である長野為業ら山内上杉氏に従っていた領主らも景春に与したため、この景春の謀叛は単なる自立に止まらず、山内上杉氏を二分する結果となり、強大な対抗勢力と成り得たのである。
当時、山内・扇谷の両上杉氏は古河公方・足利成氏と交戦中であったが、上杉勢より離反した景春はこの成氏に与し、文明8年(1476)6月には上杉勢が成氏に対抗するために布陣していた武蔵国五十子の陣を急襲した。このときの戦闘では上杉勢を追い崩すまでには至らなかったが、その後も包囲を続けて上杉方の糧道を断ち、翌年の1月には再度の攻勢に出て上杉勢を敗走させている(五十子の合戦)。
この景春の奮戦に、かねてより上杉氏に反感を持つ国人領主らも同調する動きを見せ始めるが、扇谷上杉定正の家宰・太田道灌は、景春に与するそれらの勢力を各個撃破する作戦に出た。
3月に相模国の溝呂木要害と小磯要害を陥落させ、4月には武蔵国小机城を攻め落とし、同じく4月に景春の有力与党であった豊島氏に壊滅的打撃を与える(江古田原・沼袋の合戦)という破竹の勢いで景春方の戦力を大きく削ぎ、そして5月の武蔵国用土原の合戦において景春を破ると鉢形城を包囲し、景春を封じ込めたのである。
上杉勢の包囲を受けて窮した景春は成氏に救援を求め、7月になるとこれに応じた成氏が上杉勢の背後を衝くべく上野国まで出陣してきたことを受け、上杉勢は鉢形城の包囲を解いて上野国白井城に後退した。
この後、上杉勢は白井城を出て片貝を経て塩売原に布陣。鉢形城に在った景春も軍勢を率いて塩売原に着陣し、にらみ合いが続けられた(塩売原の合戦)。12月末になって成氏勢が白井城を目指して北上を開始すると、上杉勢も防衛のために広馬場に対陣し、まさに一触即発の危機を迎えることになったのである(広馬場の合戦)。
しかし突然に大雪が降り積もったために合戦が困難であることや和睦を望む思惑が一致したため、和平に向けた交渉が始められた。この交渉は年が明けた文明10年(1478)1月2日にまとまり、正式に上杉勢と成氏が停戦、和睦したのである。
上杉氏と成氏は和睦したが、上杉氏と景春方の抗争は続いたままである。
上杉勢の主力が上野国で成氏・景春と対峙している間に、江古田原・沼袋の合戦で敗走した豊島泰経が平塚城にて蜂起していたが、道灌は1月25日にわずか1日でこの平塚城を抜き、27日には平塚城から逃れてきた泰経の籠もる小机城を包囲。
この動きを見た景春は、武蔵国二宮城の大石氏に小机城の後詰を命じるとともに自身も軍勢を率いて浅羽・羽生と転戦するが、3月19日の戦闘で扇谷上杉勢に敗れたことで再び鉢形城に封じ込められた。
4月10日頃には小机城が陥落、続いて二宮城も道灌に降った。道灌は続けて相模国へと転戦し、磯部城・小沢城を攻略。相模国から景春に与する勢力を駆逐した道灌は再び武蔵国に進出し、7月18日に景春を鉢形城から秩父郡へと逐ったのである。
こうして上野・相模・武蔵国の情勢を落ち着かせた道灌は軍勢を転じて下総国南部に侵攻し、11月10日の境根原の合戦で景春方の千葉孝胤を敗走させ、翌年の1月から孝胤の拠る臼井城攻めにとりかかった。しかしこの臼井城は要害に守られた堅城であったため、周辺の景春の与党勢力から攻めることとし、7月上旬には上総国真里谷城や長南城、下総国飯沼城を降し、7月15日には臼井城をも攻略したのである。
9月になると景春が武蔵国長井城に蜂起し、秩父郡を中心として活動を再開した。この景春の動きを受け、11月末に江戸城から出陣した道灌は翌文明12年(1480)1月に長井城を、2月には高佐須城を攻略。長井城を脱出した景春は日野城に拠ったが、その日野城も6月13日に道灌によって攻略された。敗れた景春は成氏の下に逃れ、上杉氏への敵対行動を停止。これにより、4年間に亘る長尾景春とその与党による叛乱が終息したのである。
この乱は山内上杉氏の家臣であった長尾景春と景春与党の離反に始まり、これに対抗して扇谷上杉氏、とりわけ太田道灌が景春勢を鎮圧していったものである。その鎮圧が進行するとともに景春勢が拠っていた所領は上杉氏に吸収されていったが、相模国や武蔵国南部の所領のほとんどが扇谷上杉氏のものとなり、結果として山内上杉氏に属していた所領の多くが失われ、代わって扇谷上杉氏の勢力が飛躍的に増大することとなった。その勢力は山内上杉氏に匹敵するほどであり、この勢力の均衡と太田道灌の台頭が、のちに勃発する両上杉氏の対立(長享の乱)の根底を成すこととなるのである。