文明年間頃の関東の情勢は、幕府公認の堀越公方が伊豆一国を支配し、未公認の古河公方が常陸国・下野国・下総国・上総国・安房国を支配し、残りの上野国・武蔵国・相模国を山内上杉・扇谷上杉のいわゆる『両上杉』が支配する形となっていた。その山内上杉氏の家宰が長尾氏であり、扇谷上杉氏の家宰が太田氏であった。
山内上杉顕定の家宰・長尾景信(号・昌賢)が文明5年(1473)に没したとき、顕定は景信の弟・長尾忠景にその職を継がせたが、このことによって問題が起こった。景信の子・景春が自ら家宰になることを要求し、行動を起こしたのである。
文明8年(1476)、景春は顕定に不満を持つ北武蔵の国人領主たちを糾合し、ついには武蔵国鉢形城に拠って、主家である上杉顕定に叛旗を翻すことになったのである(長尾景春の乱)。
しかし、反乱に立ち上がったとはいえ、同じ武蔵国の江戸城には扇谷上杉定正の家宰・太田道灌がおり、容易に雌雄を決せられる状況ではなかった。ところが、その道灌が駿河国の今川氏の家督争い調停のためにその年の3月、江戸を発して駿府に向かうことになったのである。景春は好機到来とばかりに勢いづき、五十子の陣を急襲したが、このときは景春に味方する国人領主の結集が少なく、撃退された。が翌9年(1477)の1月、3千ほどの兵を率いて再び五十子の陣を囲み、ついに猛攻撃を加えてこれを攻め落とした。
その結果、山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景らは、利根川を越えて上野国那波荘に敗走したのである。