古河公方・足利成氏を攻めるため、武蔵国五十子に陣(砦)を築いて駐留していた山内上杉顕定・扇谷上杉定正の両上杉陣営だったが、文明9年(1477)1月、前年6月に叛旗を翻した長尾景春の攻撃によって五十子陣を崩壊させられた(五十子の合戦)。
しかしその後の3月から4月にかけて、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が相模国溝呂木・小磯・小沢の諸城を攻略、さらには江古田原・沼袋の合戦において景春に与した豊島氏を破るといった活躍で劣勢から復帰、5月13日には再び五十子の陣が再興されたのである。
さらに道灌はその5日後の用土原の合戦で景春の軍勢を破り、景春をその居城・武蔵国鉢形城に追い込める。
両上杉陣営に城を包囲されて窮した景春は成氏に支援を求めた。これを受けた成氏は7月に至って結城・那須・佐々木・岩松(横瀬)らの軍勢を率いて上野国の瀧に布陣し、鉢形城周辺に在った上杉方の背後を脅かしたのである。
この成氏出陣によって兵站を断たれることを危惧した上杉陣営は、鉢形城の包囲を解いて一旦は上野国白井城に軍勢を収めたが、9月には再び軍勢を出して成氏勢と対陣した。
以後、両陣営は上野国の中央部でにらみ合いを続けることとなったが、成氏勢は12月23日に瀧の陣を出立、翌日には和田・観音寺を経由して白井城を衝く動きを見せた。これに対抗して上杉勢も軍を動かし、双方が榛名の相馬山麓の広馬場(相馬ヶ原)に布陣したのである。上杉勢は5千余騎、成氏勢は8千余騎という軍勢が2里ほどの距離を置いて対峙したといわれる。
しかし、突然に大雪となったため双方とも戦意を喪失して和議の動きが起こり、上杉方が翌文明10年(1478)1月1日に成氏と幕府の和睦(都鄙合体)成立の斡旋を図るという条件で停戦を申し入れ、これを成氏が容れたことでこの対陣は収束した。