上杉房顕(うえすぎ・ふさあき) 1434?〜1466

山内上杉氏。第14代関東管領・上杉憲実の三男。上杉憲忠の弟。幼名は龍春丸。兵部少輔。
父の憲実は結城合戦後の永享13年(=嘉吉元年:1441)5月頃より隠退を心に決め、龍春丸(房顕)を甥で越後守護の上杉房朝に託して幕府に出仕させ、残りの男児は出家させて山内上杉氏の家督を相続させない意向であった。
これは実行に移されて房顕は嘉吉2年(1442)頃には在京していたようだが、実家の山内上杉氏では文安3年(1446)頃に兄の憲忠が長尾景仲に擁立されて家督となり、翌年頃には関東管領にも就任した。しかし憲忠が享徳3年(1454)12月に鎌倉公方(のちに古河公方)・足利成氏によって討たれると、房顕がその後継として享徳4年(=康正元年:1455)3月末に、幕府より山内上杉氏家督ならびに関東管領に任じられた。それと同時に成氏討伐軍の総大将に任じられて出陣、同年6月には越後守護・上杉房定の率いる越後勢と提携して上野国戦線で成氏勢と交戦して勝利している。
この憲忠殺害を発端とする上杉一派・幕府と足利成氏の抗争は、享徳の乱と称される。
その後、成氏は幕府から差し下された今川範忠らの軍勢によって鎌倉を攻略されたことから下総国古河へ拠点を移し、幕府・上杉勢も緒戦に勝利はしたものの、その後は成氏勢に阻まれて利根川を突破することができず、長禄2年(1458)9月頃までには武蔵国と上野国の国境付近、武蔵国児玉郡五十子に陣を構えたことから戦況は膠着した。
また、この間の長禄2年6月頃には、幕府より任じられた新たな関東公方として足利政知が伊豆国まで下向し、房顕は関東管領としてこれを補佐することとなるが、所領等の問題から連携することができず、成氏討伐の助勢にはならなかった。
房顕は五十子陣に在って古河の成氏と相対を続けたが、寛正4年(1463)8月に恃みとしていた長尾景仲が没し、その後の12月には幕府に関東管領の辞職を願い出ているが認められなかった。
寛正7年(=文正元年:1466)2月12日、五十子陣で急死した。法名は大光院殿清岳道純。