上杉氏重臣。上杉氏の家宰・直江兼続の実弟。幼名は与七。但馬守。
天正10年(1582)、嗣子のなかった越後国小国郷の領主・小国重頼(または頼村)の養子となって小国氏を相続したが、のちに君命によって姓を大国に改めた。小国よりは大国、と縁起を担いだとも伝わる。
のち、蒲原郡天神山城主となる。
上杉氏より離反した新発田重家の討伐に従軍し、天正14年(1592)には新発田勢の拠点である五十公野城付近一帯に放火した。
天正15年(1593)10月、羽柴秀吉の聚楽第新築の際、上杉景勝の賀使を務めた。
文禄3年(1594)時点においては9千余石の知行を受けている。
慶長3年(1598)に主家・上杉氏が陸奥国会津に移封した際に南山城(別称を鴫山城、田島城)主となり、2万4千3百石を給された。
慶長6年(1601)の出羽国米沢移封の際には出羽国高畠城主として7千石の所領を与えられていたが、京都伏見に滞在して高畠城に移らなかった。
この頃には主家あるいは兄・兼続に反抗的な態度を示していたらしく、慶長9年(1604)に兼続が本多正信の二男・政重を婿養子に迎えるにあたって迎使を上洛させたが、この迎使を伏見に呼び出して斬殺し、高野山に出奔した。この事件によって大国氏は取り潰しとなったが、兼続の死後に密かに米沢に戻って隠棲したという。
元和8年(1622)2月9日没、61歳。法名は通瀾宗達居士。