大友親繁(おおとも・ちかしげ) 1411〜1493

豊後国大友氏第15代当主。11代・大友親著の子。13代・大友親綱の弟。通称は五郎。親職・道清・心源と称す。豊後守。
大友氏は応永年間(1394〜1428)後期以来、大友氏続(9代)流と大友親世(10代)流の両統が迭立して交互に惣領の地位に就いていたが、氏続流の親繁が親世流で14代当主の大友親隆の娘を娶り、文安元年(1444)に大友宗家の家督を相続したことで、迭立による分裂内訌を克服した。
同年、豊後守護に就く。
親繁は領国経営の安定化を図るため、年寄(家老職)や守護代・郡代などの職制の整備や、社家奉行・段銭奉行の設置といった政策で家臣団や領国の支配体制の強化に努めた。また、海外貿易の利潤に着目し、親繁およびその代官である田原貞茂らは積極的に朝鮮に使節を派遣し、交易を行っている。
応仁の乱に際しては将軍・足利義政の要請に従って東軍に属し、西軍に与した大内氏の領国である豊前・長門・周防国に進撃して戦功を挙げた。
文明元年(1469)、筑後守護を兼ねる。
文明5年(1473)、嫡男の政親に家督を譲ることで迭立の廃止を強固なものとし、大友宗家への集権化を図った(一説には寛正3年:1462)。
明応2年(1493)11月14日に没した。享年83。