相良武任(さがら・たけとう) 1498〜1551

大内家臣。相良正任の子。従五位下・中務丞・遠江守。
肥後国相良氏の庶流。父の正任も大内氏に仕え、ともに能筆で知られた。
武任は右筆として大内義隆に仕える。才覚に優れていたといい、重用されて権勢を揮い、文治派(事務方)の筆頭と目された。
さしたる武功もないまま側近として絶大な発言力を有したことから武断派(軍事推進派)の諸将とは不仲であったといい、天文11年(1542)の出雲国出征(月山富田城の戦い)の可否を問う軍議に際し、武断派の筆頭・陶晴賢が賛成したのに対して、武任は安芸・石見国の基盤を固めることを優先すべきとして反対した。
結果として大内氏は出雲国出征を決行した末に尼子氏に大敗を喫したが、戦後、この敗戦は大内氏の家風が文弱に流れたためだとして武断派諸将から糾弾され、敗戦の責を取らされるかたちで天文14年(1545)5月に剃髪・致仕して義隆のもとを去った。
その後は宗家の肥後国相良氏のもとに身を寄せたが、のちに義隆は書状を送って、肥後は方角が良くないから豊後国の大友氏のもとか畿内方面へ赴くことを勧めている。
天文17年(1548)8月に大内氏に再出仕し、天文18年(1549)に陶晴賢謀反の風聞が立つとその調査を命じられたが、義隆をして晴賢を止めるには至っていない。
その後も晴賢の暗躍は深化し、武任は身の危険を察知して天文19年(1550)9月頃に出奔して再び相良宗家を頼ろうとしたが、その途次の筑前国で守護代の杉興運から保護を受け、天文20年(1551)1月にそれまでの経緯を記した書状(『相良武任申状』)を義隆に送り、4月に召還されたが、同年8月には三度山口を去った。義隆の密命を帯びて、石見国の吉見正頼を頼ったという。
この後、晴賢が挙兵に及んだことを知ると、筑前国の花尾城に拠って晴賢と対抗しようとしたが、晴賢の腹心・野上房忠に攻められて討ち取られた。享年54。