徳川(松平)家臣。酒井清秀の子。通称を与四郎。別称を政家。雅楽頭。妻は石川清兼の女。
松平氏譜代家臣の酒井氏には、主として代々が官途名「雅楽助」を称する家系と「左衛門尉」を称す家系の2系列があるが、祖を辿れば同じくする一族である。雅楽助家7代の正親は、幼時から松平清康・松平広忠・徳川家康の3代に亘って仕え、とくに天文4年(1535)12月に清康が横死した事変(守山崩れ)に際し、清康の子である広忠を奉じて伊勢国に逃れ、のちに故地の三河国岡崎城に広忠を迎えるため、旧臣らと図ってこれを成功させた。
これらの功績から広忠・家康の代にとくに重く用いられ、家康が今川氏への人質として駿府に在った際にも、これに随従している。
天文17年(1548)3月の小豆坂の合戦:その2に参陣し、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦においては家康の大高城への兵糧搬入に小荷駄奉行として入城した。
家康自立後の永禄5年(1562)に吉良荘の国人領主・吉良義昭を降して西尾城主となるが、これが譜代家臣が城主に任じられた初見とされる。なお、このとき吉良義昭が拠っていた城を西尾城とする史書もあるが、これは誤りで、正しくは正親が城主となるに際して西尾城と改名されたのである(義昭の頃の名称は不詳)。
永禄6年(1563)に三河国で一向一揆が蜂起したときには、一揆方の有力武将であった荒川義広を攻めて河内国に敗走させた。
その後も永禄11年(1568)末からの遠江国掛川城の戦い、元亀3年(1572)末の三方ヶ原の合戦、天正3年(1575)5月の長篠の合戦などにも参陣しており、武功派武将としての活躍は徳川四天王にも劣らなかったとされる。
天正4年(1576)6月6日没。享年56。法名は全宗源昌寺。