酒井胤治(さかい・たねはる) ?〜?

上総国の国人領主。上総国土気酒井氏。通称は太郎または小太郎。中務丞。上総国土気城主。
天文15年(1546)頃に土気酒井氏の当主となった。
下総国千葉氏の家宰である原氏に属し、天文19年(1550)の千葉妙見社遷宮式には原氏の家中として参列しているが、その前年の天文18年(1549)には相模国小田原北条氏の当主・北条氏康から上総国二宮庄を充行われており、原氏からの自立を画策して北条氏と通じていたようである。永禄2年(1559)までに原氏が北条氏に服属すると、土気酒井氏も名実ともに北条氏に従属した。その後は北条氏を後ろ楯として支配領域を広げていったようである。
しかし永禄7年(1564)5月までには北条氏と断ち、北条氏と敵対していた安房国の里見義堯義弘父子やその同盟者である上杉謙信に与し、この5月には同年1月の国府台の合戦:その2での敗戦によって自領に戻れなくなっていた太田資正を援助して帰還させている。この変転の経緯は不詳であるが、時期をほぼ同じくして同族の酒井胤敏(東金酒井氏)が里見方から北条方へと転身しており、この両酒井氏間で確執があったことも考えられる。
このため、永禄8年(1565)2月には北条勢によって土気城を攻められた。この北条勢の中には、東金酒井氏も加わっている。この最中に上杉氏重臣の河田長親に宛て、たとえ関東中の諸氏が北条方になびいても自分は里見方であると伝えるとともに、謙信の越山(関東への出兵)を要請している。
この要請を受けた上杉軍はまもなく越山するための陣触れを行っているが、胤治以下城兵がよく防戦して土気城を守り抜いたこともあり、上杉軍は出陣するに至らなかった。
生没年ともに不詳だが、永禄9年(1566)までは史料で存在が確認できる。