太田資正(おおた・すけまさ) 1522〜1591

扇谷上杉氏の重臣。上杉朝興朝定に仕えた。武蔵国岩付城主・太田資頼(知楽斎道可)の二男で、太田道灌の曾孫にあたる。通称は源五郎。美濃守・民部大輔。三楽斎道誉と号す。
はじめ武蔵国松山城主・難波田善銀の娘の婿養子となって松山城に居していたが、天文15年(1546)の河越城夜戦において主家である扇谷上杉氏が北条氏康によって滅ぼされたのち、上野国に逃れて金山城主・由良成繁の庇護を受けた。しかし同年9月末、北条氏が上総国の里見氏を攻めるために軍勢を動かした間隙を衝いて松山城を奪取、支配領域を回復した。
翌天文16年(1547)10月に兄で岩付城主の太田資時(全鑑)が没すると、城主不在となっていた岩付城に押し入ってその家督を強引に継承し、岩付城もその勢力化に収めた。だがその直後、松山城に入れ置いた上田朝直が北条氏に内応したことによって松山城が落城、岩付城も北条勢の攻囲を受けることとなり、抗しきれずに天文17年(1548)1月に従属した。
しかし扇谷上杉氏再興の望みを捨てず、越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)に来援を求めた。永禄3年(1560)に謙信が北条勢力を攻めるために関東に侵攻(越山:その1)したときには北条氏より離反し、上杉勢の先陣として従軍している。
その後も一貫して北条氏に反抗を続け、永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2には里見氏と結んで臨んだが敗れ、その半年後の7月には子の氏資に叛かれて居城である岩付城を失った。
のち、常陸国の佐竹義重に属して小田氏治と戦い、常陸国片野城に拠って武蔵国奪還の機をうかがった。
天正18年(1590)5月、小田原征伐においては羽柴秀吉の陣を訪ねている。
天正19年(1591)9月8日、片野城で死去。70歳。法名は智正院獄雲道瑞大居士。