上杉朝定(うえすぎ・ともさだ) 1525〜1546

扇谷上杉朝興の嫡男。通称は五郎。修理大夫。
天文6年(1537)、父・朝興が死没したことを受け、13歳で扇谷上杉氏の家督を継承した。
その生涯を北条氏綱との対戦に費やした父の遺志を継いで北条氏に対抗し、その橋頭堡として同年7月に武蔵国神太寺(深大寺)要害を築いたがすぐに攻略され、さらに本拠・河越城へ向けて攻め寄せられた。これを迎撃するために軍勢を繰り出し、河越城付近の三木で合戦となったが大敗を喫し、河越城をも支えることができなくなったため、城を放棄して重臣・難波田氏の武蔵国松山城に撤退した(天文6年の河越城の戦い)。
天文7年(1538)1月、朝定は河越城を奪還すべく進撃するが敗れ、翌月には北条勢にその余勢を駆られて下総国葛西城まで攻略された。これにより扇谷上杉氏の拠点は武蔵国の松山城と岩付城のみとなり、その後も所領奪回を企図して江戸・河越に出兵したが、勢力の衰退を覆すことはできなかった。
天文14年(1545)、駿河国の今川義元が甲斐国の武田信玄と共同して北条領となっていた駿河国河東地域(富士川以東)に侵攻を企てると、朝定は義元に呼応した山内上杉憲政に応じて挟撃策を展開。9月下旬より上杉憲政勢とともに侵攻して河越城を圧迫し、10月末には古河公方・足利晴氏の軍勢をも加えた大軍で重厚な包囲網を布いたが、翌天文15年(1546)4月20日の夜、後詰のために来援した北条氏康の急襲に遭って敗死した(河越城夜戦)。享年22。法名は了念正栄。
この朝定の死により、扇谷上杉氏は滅亡した。