後北条氏(小田原北条氏)の第2代当主。北条早雲(伊勢宗瑞)の嫡男。母は小笠原政清の娘。幼名は千代丸。通称は新九郎。従五位下・左京大夫。はじめは父・早雲と同様に伊勢姓を名乗っていた。
早雲が相模国西郡を勢力下に収めたのちは小田原城主として周辺領域の統治を担い、永正9年(1512)頃より早雲の後見を受けつつ政務を執るようになり、永正15年(1518)に家督を譲られた。氏綱がそのまま小田原に在城したことから、小田原が本城となる。
この直後より「虎(禄寿応穏)」「調」の朱印判を使用することで代官の不当な徴発や賦課の排除を図り、永正17年(1520)からは「代替わり検地」などの政策を用いて支配体制を整備している。
大永3年(1523)、姓を伊勢から北条へと改称する。これは、鎌倉幕府の執権であった北条氏の姓を踏襲することで、相模国支配の正当性を論理づけるためとみられている。
この頃より早雲の遺志を継いで山内・扇谷の両上杉氏領国、とくに武蔵国への進出を目論み、武蔵国中南域を経略したのちの大永4年(1524)1月には扇谷上杉朝興の重臣・太田資高を内応させて武蔵国江戸城を奪取、同年2月には岩付城、3月には蕨城、4月には毛呂城を攻略して勢力を大きく伸張させた。しかし両上杉氏の巧みな外交戦略によって甲斐国武田氏・上総国真里谷武田氏・小弓公方・安房国里見氏らによって包囲網を構築されて劣勢に立たされ、享禄4年(1531)頃には辛うじて江戸周辺を領有するに止まった。
しかし天文2年(1533)に里見氏・真里谷武田氏にそれぞれ分裂抗争が起こるとこれに介入して包囲網を弱体化させることに成功し、反抗の足がかりをつかむ。
天文6年(1537)2月、それまで北条氏と強固に結びついていた今川氏が武田氏と同盟したことを契機として駿河国河東地域に出兵し、今川氏と敵対するに至った(河東一乱)。また、扇谷上杉氏の本城である武蔵国河越城を攻略して上杉朝定を武蔵国松山城に逐い、翌天文7年(1538)には下総国の国府台の合戦において足利義明・里見義堯を撃破するなどして、武蔵国中域から下総国南西域に勢力を拡大した。
国府台の合戦ののちには古河公方・足利晴氏より関東管領職に任じられた。ただし、関東管領とは本来は幕府が任命するものであり、当時は山内上杉憲政がその地位に在ったため、氏綱の関東管領職補任は晴氏が私的に任じたものといえる。しかしこの補任を受けたことによって関東に兵を動かす大義名分を得たことになり、以後、北条氏はこの名分を掲げて山内上杉氏、のちには上杉謙信と抗争に及ぶことになる。
天文元年(1532)から天文9年(1540)にかけて、鶴岡八幡宮を造営。また、天文元年頃に関白・近衛稙家の姉を後妻に迎え、天文8年(1539)には娘を足利晴氏に嫁がせるなど、間接的に朝廷や幕府との関係を深めるといった外交政策も用いた。
天文10年(1541)7月17日に病死した。55歳。法名は春松院殿快翁宗活大居士。