国府台(こうのだい)の合戦

古河公方・足利高基の弟である足利義明は上総国真里谷(まりやつ)城の武田恕鑑の後ろ盾によって下総国小弓に居館を構え、小弓御所と呼ばれて下総における一大勢力となっていたが、高基の嫡子・晴氏に代わって古河公方の座を継承したいという野望を持っていたので、晴氏や晴氏を支援する北条氏綱にとって脅威の存在となっていた。
天文6年(1537)に武田家に内紛が起こり、信隆信応の兄弟が敵対した。これに応じて義明は上総国の里見義堯と共に信応に与し、信隆方の上総国峯上城・百首城を攻めた。このとき信隆は降伏したが、氏綱に通じていたため、信応と信隆の戦いはやがて義明・義堯対氏綱、へと移行していくのである。

天文7年(1538)10月初旬、足利義明は弟・基頼や里見義堯と共に下総・上総の軍勢を率いて武蔵国へと発向、江戸川東岸の国府台に布陣した。義明ら出兵の報を受けた北条氏綱は10月2日に居城の小田原城を出て、まずは江戸城に入った。そして5日に江戸城を出発して、2万の軍勢で国府台の近くに布陣した。
国府台は江戸川東岸に続く台地で、江戸川が堀の役目を果たしているため、江戸方面からの攻撃を防ぐには天然の要害である。しかも川と台地の間が狭く、大軍の侵入も困難であった。そこで氏綱は北方の松戸方面から迂回して攻め込む方策を用いることにしたのである。
義明は北方を固めていた軍勢から北条勢渡河の知らせを受けたがこれを迎撃せず、みすみす渡河を許してしまった。これがこの合戦の結果を左右したと言われる。
合戦は7日になってから展開された。義明は自ら陣頭に立って軍勢を鼓舞していたが、氏綱方の横井神助という武将の強弓に胸を貫かれて戦死した。大将である義明の死によって戦意を失った足利・里見の軍勢は総崩れとなり、基頼や義堯らは安房国へと敗走、氏綱方の圧勝となった。
この合戦で義明方の戦死者は1千余人を数えたという。