上総国真里谷武田氏。武田恕鑑の嫡子。武田信隆は異母兄。通称は八郎七郎、または八郎四郎。式部大夫。上総国真里谷城主。
天文3年(1534)の父・恕鑑の死没に際し、一族の者は信応に家督を継がせようと望んだが、まだ信応が若年だったため、異母兄の信隆が真里谷武田氏の惣領となる。
真里谷武田氏は、この前年より顕著となっていた安房国の里見氏の内訌に介入し、恕鑑は里見氏嫡流の里見義豊を、信隆は庶流の里見義堯をそれぞれ支援していたことから対立の兆しが芽生えていたが、それが足利高基・晴氏父子(古河公方)と足利義明(小弓公方)の抗争と絡み合い、内訌が激化。小弓公方の権威を背景に勢力を伸ばした恕鑑の嫡子である信応は小弓公方に与し、対して信隆は古河公方を支持する北条氏綱と結んだため、家中が分裂することとなった。
同年11月には足利義明の支援を得て、椎津城に拠っていた信隆を逐って真里谷武田氏の惣領となり、天文6年(1537)5月には北条氏の後援を受けた信隆が決起するが、これも制圧して信隆を降伏させ、真里谷武田氏の分裂抗争を終結させた。
しかし翌天文7年(1538)10月の国府台の合戦で義明が討死したことを機に信隆が勢力を盛り返し、信応は惣領の地位を逐われた。
死去年は天文21年(1552)か。