足利高基(あしかが・たかもと) ?〜1535

第3代古河公方。第2代古河公方・足利政氏の嫡男。幼名は亀王丸。初名は高氏。従四位下・左兵衛佐。妻は宇都宮成綱の娘。
明応年間(1492〜1501)頃に元服したと見られる。
父・政氏は永正2年(1505)に長享の乱を終息に導いた関東管領・山内上杉顕定を信任し、古河公方と関東管領による支配体制の復活を企図していたが、これに反発した高基は妻の実家である宇都宮氏を頼って永正3年(1506)に下野国宇都宮に逃れた。この対立は翌永正4年(1507)に沈静化するも、間もなく対立が再燃し、永正6年(1509)6月に至って顕定の調停を受けてようやく政氏との和睦が成立した。
しかし古河公方を支えるべき存在の顕定が永正7年(1510)6月の長森原の合戦で戦死すると三度政氏と反目することとなり、山内上杉氏の内部においても顕定の跡目をめぐる分裂抗争が起こって公方父子の対立と結びつき、さらには北条早雲の介入によって関東の情勢は乱れ、有力領主を巻き込んでの分裂抗争が展開されることとなる(永正の乱)。
高基は政氏と和睦した際に古河城に戻っていたが、永正7年7月に古河公方重臣・簗田高助の下総国関宿城に移り、政氏・山内上杉顕実(政氏の実弟)陣営と対立した山内上杉憲房と結び、永正9年(1512)6月頃に政氏を下野国小山城(別称:祇園城)主・小山政長のもとに逐って古河城に入り、自力で第3代の古河公方の地位に就いた。
しかし弟・足利義明が永正14年(1517)頃より「小弓公方」と称して関東の公方に成り代わろうとする動きがあったため、永正18年(=大永元年:1521)2月に子・晴氏の妻に北条氏綱の娘を娶るという約定を取り交わし、北条氏の後ろ盾を得て威勢の回復を図ろうとした。
天文4年(1535)10月8日没。法名は潜光院高山貴公。