足利晴氏(あしかが・はるうじ) 1508?〜1560

第4代の古河公方。第3代・足利高基の嫡男。母は宇都宮成綱の娘。幼名は亀王丸。従四位下・左兵衛督。
享禄元年(1528)12月に元服し、長尾為景の斡旋によって将軍・足利義晴から一字を与えられて晴氏と名乗った。天文4年(1535)に父・高基のあとを継いで4代目の古河公方となる。
しかし下総国小弓に拠って関東公方の座を窺う叔父・足利義明(小弓公方)が、里見義堯と連合して北武蔵に侵入を図ったため北条氏綱に援けを求めた。
武蔵経略の名分を得た氏綱は天文7年(1538)10月、国府台の合戦で義明を討ち取った。天文8年(1539)、晴氏は氏綱の娘を娶って北条氏との絆を強固にする。
だが氏綱の死後にあとを継いだ北条氏康の態度に不満を抱き、氏康と敵対関係にある関東管領・山内上杉憲政に誘われて提携するとともに北条氏との関係を絶ち、天文14年(1545)から武蔵国河越城の北条綱成を攻めたが敗れ(河越城の夜戦)、古河城に敗走した。
その後も古河城に拠って北条方に抗するが、上杉憲政が天文21年(1552)の平井城の戦いに敗れて越後国に逐電したために孤立し、氏康の圧力に屈して同年12月に家督を子・義氏(氏康の甥)に譲って隠居した。この翌年には下総国葛西城が御座所とされたため、子の義氏や藤氏(義氏の庶兄)らと共に移っている。
しかし氏康への反発から古河公方の家督を藤氏に譲ろうと目論み、天文23年(1554)7月24日には藤氏と共に古河城に入部して挙兵したが、同年11月には古河城を攻略されて降伏し、相模国秦野(波多野)に幽閉された。
のち、重臣の簗田晴助の居城である下総国関宿城を経て弘治3年(1557)7月には古河城に移っているが、謀叛の嫌疑をかけられて下総国栗橋城の野田氏に預けられ、永禄3年(1560)5月27日に同地で没した。法号は永仙院系山道統。