簗田晴助(やなだ・はるすけ) ?〜?

古河公方・足利晴氏の重臣。簗田高助の子。中務大輔。号は道忠・洗心斎。下総国関宿城主。
譜代の重臣であることに加え、妹が晴氏の側室となって庶子の藤氏・藤政らをもうけるなど密接な関係にあった。
天文15年(1546)4月の河越城夜戦後より主家・古河公方への圧迫を強める北条氏康と「相互に協力して古河(晴氏)を奉る」旨の起請文を天文20年(1551)12月に交換しているが、実質的にはこのときより北条氏に屈服したとみられ、天文23年(1554)7月に晴氏・藤氏父子が下総国古河城に拠って氏康に叛いたときも、晴氏方には与力していない。また、氏康の後ろ盾によって古河公方の家督を継承した足利義氏が永禄元年(1558)4月に鶴岡八幡宮を参詣したときには、その供奉として太刀持ちを務めている。
同年8月には氏康の命によって居城・関宿城を足利義氏に進上し、代わって古河城に在城している。これは簗田氏を根拠地から切り離すことで、その弱体化を図ったためともいわれる。
しかし永禄3年(1560)から翌年にかけて上杉謙信が関東に侵攻(越山:その1)してくると北条方より離反、足利藤氏を擁立して上杉方に属した。このとき、かつての居城であった関宿城を奪還している。しかし謙信が2度目の越山を終えて帰国したのちの永禄5年(1562)2月頃には北条勢の攻撃を受けて古河城を抜かれた。
永禄6年(1563)には3度目の越山を果たした謙信の武威によって古河城を回復したが、永禄8年(1565)3月には関宿城に北条氏からの攻撃を受けている(関宿城の戦い:その1)。
この後も永禄11年(1568)末に北条氏政と断交した武田信玄とも結んで北条氏に抗していたが、信玄没後の天正2年(1574)1月より北条氏照らによる攻囲を受け、謙信や常陸国の佐竹義重に救援を要請したが支えきれず、義重の仲介で同年閏11月19日に関宿城を開城して下総国水海城に移り、北条氏に従属した(関宿城の戦い:その3)。