越後国の上杉謙信は、北条氏康に圧迫された関東管領・上杉憲政や関東地方の諸領主らの要請を容れ、北条氏を討伐するために永禄3年(1560)8月に進軍を開始した。上野国から関東に侵攻した上杉勢は破竹の勢いで関東地方を席巻し、北条氏の本拠である相模国小田原城を攻囲したが、決定的な打撃を与えられないまま永禄4年(1561)6月に帰国した(越山:その1)。
謙信が帰国したのちは北条方が勢力回復に向けて動きはじめ、高城胤吉(下総国小金城主)・成田長泰(武蔵国忍城主)・上杉憲盛(武蔵国深谷城主)・佐野昌綱(下野国唐沢山城主)らを膝下に従え、さらには武蔵国における上杉方の拠点・松山城を窺う。これを下総国古河城に逗留していた近衛前久から知らされた謙信は11月に再び関東に出兵したのである。
関東に出陣した謙信は11月27日には武蔵国の生山で北条勢と戦う。しかしこの間、甲斐国の武田信玄が信濃国佐久郡から上野国西部に侵入して上杉方の倉賀野城を圧迫しており、北条勢もこの倉賀野城攻めに加勢していたようである。北条氏と武田氏は同盟関係にあり、共同作戦を展開したのである。
このときはどちらの城も堅く守り、落城には至らなかった。
謙信は北条方勢力となった佐野昌綱を攻めることを決めた。その意図は、下総国古河への兵站を開くためのものと思われる。
謙信が上杉憲政から継承した関東管領職の責務とは関東公方(古河公方)を補佐することであり、関東公方の威令の下に関東地方を治めることであった。北条氏を討伐する名分はここにあり、公方の在地である古河への兵站を確保しておくためにも上野国東部・下野国南部の制圧は必須だったのである。
謙信は戦備を調えつつ上野国厩橋城で越年して永禄5年(1562)を迎え、年が明けるとすぐに佐野へ侵攻する腹づもりだったようだが、武田勢による上野国西部への侵攻を迎撃するなどしていたため、佐野へ向けて出陣したのは2月に入ってからのことであった。
まずは2月9日より北条方の武将・赤井照景の拠る上野国館林城を攻め、17日には開城させた。
謙信は攻略した館林城を下野国足利の領主である長尾当長に預け、引き続き下野国佐野へと侵攻して佐野昌綱の拠る唐沢山城攻めに取り掛かった。
しかし唐沢山城を陥落させることはできず、3月中には厩橋を経由して越後国に帰国した。しかもこの間に古河城は北条勢によって攻略されており、謙信が古河公方に擁立していた足利藤氏は古河城からの退去を余儀なくされ、のちには里見義堯を頼って上総国久留里城へと移ることとなったのである。