武蔵国の国人領主。上杉憲賢の子。通称は三郎。左兵衛尉。武蔵国深谷城主。
庁鼻和上杉氏の流れを汲み、武蔵国深谷を本拠としたことから深谷上杉氏と称される。
関東管領・山内上杉憲政に属したが、天文20年(1551)、武田信玄と笛吹峠に戦って敗れる。
永禄3年(1560)秋から翌年にかけて越後国の上杉謙信(当時の名乗りは長尾景虎)が北条氏康討伐のために関東に侵攻(越山:その1)した際には、関東管領職を継承した謙信に従属した。
永禄5年(1562)11月には上杉方の要衝である武蔵国松山城を守るべく北条・武田連合軍の猛攻に臨んだが、翌年2月には降伏した(武蔵松山城の戦い)。
以後は北条氏の麾下として活動したと見え、永禄8年(1565)には武蔵国忍城の成田氏長や上野国館林城を有する長尾当長ら上杉勢力からの攻撃を受け、永禄9年(1566)11月には越山した謙信によって深谷領を焼き払われている(越山:その7)。
永禄12年(1569)6月に越後国上杉氏と北条氏が越相同盟を結ぶと、7月に上杉方に帰参した。
この越相同盟が元亀2年(1571)10月頃に破綻したのちも越後上杉方に留まり、元亀3年(1572)には友軍である上野国の倉賀野城や武蔵国の羽生城の加勢に赴いているが、元亀4年(=天正元年:1573)4月までには北条氏の圧迫が自身の領する深谷にも及んでいたようで、間もなく北条氏に降った。
天正2年(1574)11月に上杉謙信が北条氏に攻められた下総国関宿城救援のために越山した際(関宿城の戦い:その3)には、上杉軍に虚偽の情報を伝えて陽動に成功している。