北武蔵の中央に位置する松山城は軍事的に重要な位置を占めていたため、扇谷上杉氏と古河公方足利氏、そして北条氏との間で激しい争奪戦が繰り返されていたが、永禄3年(1560)8月から翌年6月にかけて関東地方に出兵(越山:その1)した上杉謙信によって攻略されて以来、上杉方の前線拠点となっていた。
永禄5年(1562)11月、北条氏康は上杉憲勝の守る松山城を奪還すべく、3万5千の兵をもって包囲した。北条方には同盟関係にある武田信玄も1万5千の援兵を率いて加わっており、松山城は総勢5万という大軍に攻められることになったのである。
この松山城危機の急報を受け、謙信も越山の準備に取りかかった。憲勝は上杉方武将で武蔵国岩付城の太田資正と連携を取りながら謙信の来援を待った。
この岩付城との連絡には軍用犬が使われたという。秘密文書を竹筒に収めて犬の首に付け、深夜に送り出すのである。これが、軍用犬が日本で使われた最初とされる。
険阻な要害に立つ松山城の守りは堅く、城内から弓や鉄砲で激しく応戦していたため北条・武田連合軍は攻めあぐねていた。そこで氏康と信玄は金掘坑夫を集め、城内に向けて掘り入ることにした。しかし城方でもこれに気付いて坑道を崩したり水を流したりして防衛したため、この坑道作戦は失敗に終わった。
そして年が明けて永禄6年(1563)、攻城側に焦りが生じるようになった。3度目の越山を果たすべく、前年の11月24日に越後国を出立した謙信は大雪に阻まれつつも12月16日に上野国沼田にまで到着しており、松山城救援の準備を調えつつあった。上杉勢の来援は間近だったのである。
この情勢を受けて連合軍側は、松山城に降伏を促す使者を送った。この使者は、近日中に連合軍による総攻撃があるであろうこと、大雪のために上杉勢の救援は期待できないことなどを挙げて諭し、籠城側もまた連合軍による絶え間ない攻撃を受け続けていたために戦意を失っており、憲勝は2月4日に降伏勧告を受け入れて開城降伏するに至ったのである。
その頃、上杉謙信は北武蔵の石戸にまで兵を進めていたが、松山城が開城したことを知ると「憲勝の臆病者めが」と怒鳴り、太田資正に八つ当たりしたという。