永禄5年(1562)3月に2度目の越山を終えて帰国した越後国の上杉謙信は、7月から10月中旬にかけて越中国に出陣した。しかしこの間、相模国の北条氏康が4月に下総国葛西城を攻略、7月には常陸国の小田氏治を従属させるなどして勢力の回復を図っていた。
さらには氏康と同盟関係にあった甲斐国の武田信玄も、上野国西部から侵攻して和田城主・和田業繁らを従えており、11月頃よりこの両軍が連合して総勢5万余という大軍で上杉方武将・太田資正の属城で、上杉憲勝の守る武蔵国松山城を攻めたのである。
資正より越山しての援軍を求められた謙信が居城・越後国春日山城を発して関東に向かったのは11月24日になってからのことである。しかし大雪に阻まれて行軍速度は遅く、上野国沼田(倉内)城に入ったのが12月16日のことであった。
謙信は沼田で年を越し、明けて永禄6年(1563)1月に諸将へ松山城救援の出陣命令を下して厩橋城から発向した。上杉勢は武蔵国の石戸まで進軍したが、松山城は支えきれずに2月4日に落城していたのである(武蔵松山城の戦い)。
これに切歯扼腕した謙信は軍勢を転じて武蔵国騎西城(別称:私市城)を攻略し、城主の小田家時とその兄で武蔵国忍城主の成田長泰を降伏させた。
こののち下総国の関宿城と古河城を奪回して関宿城に簗田晴助、古河城に足利藤氏を復帰させた。ついで北条氏に与する領主らを制圧するため下野国に攻め入り、4月15日には佐竹義昭・宇都宮広綱らとともに小山城(別称:祇園城)主・小山秀綱を攻めて降し、さらには唐沢山城主・佐野昌綱を服属させたのである。
謙信は4月26日には上野国厩橋城に引き上げ、28日には沼田を経て6月に帰国した。