越山(えつざん):その7

上野国は南北朝時代より山内上杉氏が相伝する守護領国だったが、天文年間(1532〜1555)後期より相模国を本拠とする北条氏康の勢力が大きく伸張し、山内上杉憲政を駆逐した。その後、憲政から山内上杉氏の家督を譲られた越後国の長尾景虎(上杉謙信)が永禄3年(1560)秋より関東地方に侵攻し(越山:その1)、一時は上野・下野・常陸・下総・上総・安房国の有力領主と与同あるいは麾下に従え、武蔵国にも影響力を及ぼすほどであったが、その後の氏康や氏康と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄らの攻勢によって、勢力範囲の縮小を余儀なくされていた。
とりわけて越後国から関東平野への進軍路にあたる上野国では、永禄8年(1565)段階において和田城・岩櫃城・倉賀野城・安中城・松井田城などが武田氏の手に落ちており、永禄9年(1566)8月頃までには新田金山城が北条氏に帰順、さらに9月末には堅城として名高い箕輪城までもが武田勢によって攻略されるところとなり、上野国における上杉勢力は衰退の一途を辿っていた。
永禄9年の夏、越後国の上杉謙信は6度目の越山において新田金山城に拠る由良成繁・国繁父子を攻めたが攻略はならず、一旦帰国したのちの10月11日、この年3度目の越山に臨む。

今度の越山については史料が錯綜しているが、概ね次のような経緯になろう。
上杉軍は10月下旬には上野国の沼田に着陣していたようで、武田信玄はその侵攻に備えて西上野のおそらくは松井田城や倉賀野城に防備を固めるように命じている。
11月8日に上野国勢多郡の大胡に着陣した謙信は、翌日には上野・武蔵国境の利根川沿いまで迎撃に出ていた北条勢に対抗して上野国の高山から武蔵国深谷近辺に放火している。こうして北条・武田軍を牽制しておいて、再び由良氏の新田金山城を攻めるつもりであったのだろう。
しかし12月に至り、上野国厩橋城の守将に任じていた有力武将の北条高広が、北条・武田方に内応したことが露見した。この厩橋城は越後国から関東へ進軍する際の重要な拠点である。さらには謙信より上野国館林城を預けられていた足利長尾当長も北条氏に通じた。この長尾氏は山内上杉氏譜代の重臣で、謙信の出自である越後国長尾氏と祖を同じくする一族衆であった。
この両名の変転をそれぞれ永禄10年(1567)の4月と6月とする史料もあるが、その後の上杉軍の動きから見ると、この永禄9年のことであろう。
彼らの離反により、まさに四面楚歌の状態に陥った上杉軍は12月20日頃には沼田まで後退し、その後、下野国の佐野へ陣を移した。厩橋城が新田への行軍路を扼すことになったため、桐生を経て佐野へ至り、ここを新田攻めの拠点に定めたものと思われる。
佐野で永禄10年(1567)の年明けを迎えた謙信は、これと前後して常陸国の佐竹義重に参陣を求めていた。佐竹氏は安房国の里見氏とともに、反北条氏の友好勢力である。
1月28日には佐竹義重が佐野に着陣して会見が持たれたようだが、上杉軍は新田を攻めることなく帰国の途に着いたようだ。帰国の時期も不詳であるが、3月から4月頃のことであろうか。
6度目の越山に続き、上杉軍にとっては全く得るもののない遠征であった。