上野国の国人領主。横瀬泰繁の子。幼名は熊寿丸。通称は六郎。雅楽介・刑部大輔・信濃守。上野国新田金山城主。
はじめは横瀬姓で、新田岩松氏の家臣だった。
天文14年(1545)、父・泰繁が死去したのちに家督を継ぎ、新田金山城主となる。のちに主家を圧倒して新田領を支配した。
上野国への所領拡大を目論む北条氏康に圧迫されて弘治元年(1555)に帰属したが、永禄3年(1560)に越後国の上杉謙信が関東に出兵(越山:その1)してくると参陣し、以後は謙信に従った。この越山に際して参陣した諸将を記した『関東幕注文』には「横瀬雅楽介」と見える。
永禄5年(1562)に信濃守に任官。また、この頃に屋敷の所在地に因んで姓を由良と改めた。
永禄6年(1563)閏12月には北条・武田氏の連合軍に城を攻められているが、上杉勢の太田資正・富岡重朝らの後詰を得て守り抜いた。
5度目の越山を果たした謙信が永禄9年(1566)3月に下総国臼井城を攻めて大敗した末に帰国したのち、上杉氏から離反して北条氏に服属した。9月には北条氏康・氏政父子連署の起請文を受け取っている。
永禄12年(1569)より始まる越相同盟の交渉においては北条方として上杉氏との仲介に尽力し、北条氏と上杉氏の連絡取次ぎや、謙信の養子となった上杉景虎(北条氏秀)の移送など、重要な役割を果たした。
元亀3年(1572)には桐生城を攻略、天正2年(1574)に同城に移った。
天正6年(1578)6月30日没。73歳。法号は中山宗得。