永禄8年(1565)2月中旬、相模国を本拠とする北条氏の圧迫を受けていた上総国土気城主・酒井胤治が越後国の上杉謙信に越山(関東への出兵)を要請した。
この頃の謙信は、越前国の朝倉義景からの要請を容れて加賀国の一向一揆との戦いへ出陣することにしていたが、関東の危急を受けて朝倉氏への支援を中止して越山することを下野国榎本城主の小山高朝や武蔵国忍城主の成田氏長に2月24日付の書状で伝えるとともに、上野国厩橋への参陣を要請している。
しかし謙信は4月に配下の河田長親らを派遣して対処するに止まっており、5月下旬になって越山無用との連絡を受けたため、越山はしなかった。しかしこの間にも北条勢による反北条勢力への圧迫は激しさを増しており、土気城を攻めていた北条勢は、3月には謙信に与する簗田晴助の拠る下総国関宿城の攻撃に移行し(関宿城の戦い:その1)、8月から10月にかけて成田氏の忍領を圧迫している。
また、北条氏と同盟を結んでいた武田信玄も上野国西部へと侵攻しており、6月には上杉方の倉賀野城が、11月には嶽山城が武田勢の攻撃を受けて落城、西上野は武田氏の勢力圏となったのである。
こうした情勢を受けて越山を決めた謙信は、11月末に越後国を発向して関東で年を越し、翌永禄9年(1566)1月末に下野国佐野に軍勢を進めて圧したのち、佐竹義重らとともに常陸国小田城を攻めた。この城は謙信が永禄6年(1563)冬から翌年春にかけて越山した際(越山:その4)、義重の父・佐竹義昭の要請を受けて攻略したが、この永禄8年12月頃に元城主の小田氏治によって奪回されていたが、この上杉・佐竹軍の攻撃を受けて氏治は2月に再び降伏開城した。
小田城を抜いた謙信は下総国に侵攻し、3月上旬には北条方の千葉胤富の属城・下総国臼井城を攻囲した。上杉勢は3月20日頃には堀一重を残すまでに攻め立てており、陥落まであとわずかであったというが、臼井城の救援に駆けつけた北条・千葉氏の軍勢に大敗を喫し、数千人の死傷者を出して撤退した。
謙信は5月上旬頃に関東から帰国したが、この臼井城での敗北を機に関東の国人らは謙信から離れていくことになる。