越山(えつざん):その4

永禄6年(1563)6月に越後国の上杉謙信3度目の越山を終えて帰国すると、謙信に圧せられていた相模国の北条氏康は再び勢力奪回の兵を動かす。
氏康は、9月には謙信が古河公方に擁立していた足利藤氏の拠る下総国古河城を攻略して藤氏を捕えた。氏康は自身の甥にあたる足利義氏を古河公方に推していたが、藤氏を捕えたことにより、公方の権威と権力の吸収に大きく近づいたのであった。

この後、氏康は武蔵国を平定するべく出陣。さらには氏康と同盟関係にあった甲斐国の武田信玄も北条勢に呼応して10月頃より上野国西部へ侵攻を開始した。
武田勢は10月中旬に上杉方の上野国岩櫃城を攻略、ついで倉賀野城攻めに転じた。
倉賀野城主・倉賀野直行の重臣である橋爪若狭守から救援要請を受けた謙信は、11月下旬に関東に向けて出陣したが、雪のために行軍は遅れ、関東侵攻への拠点としていた上野国厩橋城に着いたのは閏12月19日のことであった。
この間にも倉賀野城は武田勢の攻撃を受けていたが、橋爪若狭守がよく守り、のちに謙信より感状を与えられている。
しかし閏12月に入って北条・武田の連合軍が由良成繁の拠る上野国金山城や下野国足利城を攻めると、謙信は武蔵国岩付城主・太田資正や忍城の成田氏長らに武蔵国羽生への出陣を要請している。
厩橋城に入った謙信は安房国の里見義堯義弘父子に書状を送って出陣を促すとともに、自らは武田方の上野国和田城攻めにとりかかったのである。

明けて永禄7年(1564)1月、謙信からの要請を受けた里見義堯・義弘父子は太田資正と連携して下総国への侵攻を図ったが、北条氏の素早い迎撃の前に大敗を喫した(国府台の合戦:その2)。この頃の謙信は和田城、あるいは常陸国太田城主・佐竹義昭の要請を容れて小田氏治の拠る常陸国小田城を攻めていた。この小田城攻めでは城兵2千余人を討って1月29日に陥落させ、氏治を常陸国土浦城に逐っているが、このために里見氏を支援することができず、反北条戦線の貴重な盟友ともいえる里見氏の勢力を大きく減衰させる事となったのである。
謙信は小田城を陥落させると軍勢を転じ、北条氏に属す佐野昌綱の拠る下野国唐沢山城(佐野城)を攻め、2月17日には昌綱を屈服させた。
ついで3月7日からは再び和田城を攻めた。この軍勢は越後衆だけでなく上野国白井城の長尾憲景、新田金山城の横瀬成繁、下野国の宇都宮広綱、常陸国の佐竹義昭らを加えた大規模な軍勢であったが、武田氏の支援を得て防備を増強させていた和田城を落とすことができずに帰国した。