上総国真里谷武田氏。上総国真里谷城主。出家号は寿星庵恕鑑で、実名は「信清」「信保」などと諸説があり、不詳。
上総国武田氏の祖・武田信長の後裔にあたり、真里谷武田道鑑(実名は清嗣か)の孫。真里谷武田信嗣の子。通称は八郎五郎。はじめ式部丞、のちに式部大夫。三河入道とも称される。
永正年間の初期頃には上総国の市原郡・長北郡等の領有をめぐって千葉勝胤の勢力と抗争に及んでいるが、劣勢を強いられたため古河公方・足利政氏の子である足利義明を招請して擁立することを画策、さらには北条早雲の支援をも得て諸勢力の糾合に成功し、永正14年(1517)10月に千葉氏麾下の三上氏や原氏の拠点である三上(真名)城・小弓城を攻略。のち、小弓城を義明の居所として小弓公方を成立させ、その後ろ盾となることで声望を高め、上総国の中心勢力へと発展した。
しかし大永5年(1525)に至って義明が早雲の子・北条氏綱と敵対する扇谷上杉朝興と結んだこと、また天文2年(1533)7月より激化する里見氏の内訌において恕鑑は嫡流の里見義豊を、北条氏は庶流の里見義堯をそれぞれ支援したことなどから、北条氏との関係は悪化した。
天文3年(1534)7月1日に病死した。