上総国真里谷武田氏。武田恕鑑の子。通称は八郎太郎。丹波守。武田信応の異母兄。
天文2年(1533)7月、安房国里見氏の内訌において里見義豊に圧せられて逃れてきた里見義堯を上総国百首城(別称:造海城)に保護した。この後、義堯が北条氏綱の支援をも得て逆襲に転じたため、義豊は後退を余儀なくされて武田恕鑑を頼り、翌天文3年(1534)4月には義豊が恕鑑の支援を得て安房国へと攻め込んでいることから、恕鑑と信隆には方策の異同があったことが窺える。
同年7月に恕鑑が死没したことを受けて真里谷武田氏の惣領となったが、庶流であったこと、それまで属していた小弓公方・足利義明から離反して北条氏綱と結んだことなどから家中は信隆派と信応派に分裂したため椎津城に移ったが、同年11月には椎津城を義明の軍勢に攻められて峯上城に落ち延びた。
天文6年(1537)5月には与同勢力を糾合、再び信応に敵対して決起したが、足利義明・里見義堯らの軍勢に攻められて5月27日に降伏した。
その後は北条氏を頼って相模国に移ったとみられており、天文7年(1538)10月の国府台の合戦で北条氏綱が義明を敗死させたのち、氏綱の後ろ盾によって真里谷武田氏の惣領に返り咲いた。
生年は不明であるが、没年には天文9年(1540)、天文20年(1551)とする系図がある。