斯波義達(しば・よしたつ) ?〜?

斯波義寛の子。名の読みを「よしみち」とも。右兵衛佐・治部大輔。安心と号す。
年月は不詳であるが、父・義寛のあとを受けて斯波氏の当主となり、永正8年(1511)10月に尾張守護に補任される。
斯波氏はかつて尾張・遠江・越前の3国を守護領国としていたが、越前守護職は文明3年(1471)、かつて家臣であったが応仁の乱を契機に独立を果たした朝倉敏景の手に渡り、遠江守護職も斯波氏の衰退を見て実効支配に乗り出した駿河国の大名・今川氏親が永正5年(1508)7月に正式に守護に補任されており、斯波氏は尾張守護職のみを保持するにとどまっていたのである。
義達は遠江奪還の機会を窺っていたが、永正7年(1510)に三河国吉良氏の家臣・大河内貞綱を中心とする遠江国西部の国人領主らが反今川勢力として決起すると、これを好機として義達も自ら軍勢を率いて遠江国へ出征した。
この遠征は翌年以降も行われたが、永正10年(1513)3月に大河内勢は拠城である深嶽(みたけ)城が陥落して降伏、斯波勢も拠点の引馬城で戦って敗れ、尾張国に撤退した。
この直後の4月(一説には5月)、重臣で尾張守護代の織田達定と戦って達定を討った。その理由は不明である。
永正14年(1517)にも遠江国に出征しているが、8月には引馬城を攻略されて捕えられ、同じ足利一門であることから助命はされたが、剃髪を強いられて僧形のまま尾張国に送り返されたという。
大永元年(1521)11月に享年60で没したとも、永禄12年(1569)に享年84で没したともされる。