宗尚茂(法名を霊鑑:れいかん)の子。刑部少輔・讃岐守。
宗氏は九州の雄族である少弐氏に属して対馬島の実効支配を担う一族であったが、貞茂の祖父にあたる宗経茂が没したのち、宗氏一族に経茂・尚茂・貞茂と連なる系譜と、経茂の弟である頼次(仁位宗香)に始まる仁位宗氏との間で、島内の主導権をめぐる対立が生じ、貞茂は応永5年(1398)4月から12月の間に頼次の孫・頼茂から対馬の支配権を奪還して対馬島主となる。翌年7月には「日本国対馬島都総菅」と称して家督相続を朝鮮国に通知し、通交も行った。朝鮮国とは引き続き応永8年(1401)まで毎年、遣使通交している。
その一方で、この頃に九州探題の渋川満頼や大内氏らとの武力抗争を繰り返していた主家の少弐貞頼を援け、筑前守護代として北九州に在陣することが多かったが、この間の応永8年の冬、仁位宗氏の宗賀茂が対馬で蜂起すると、手勢を率いて急ぎ帰国し、翌年7月にこれを鎮圧した。
応永11年(1404)6月に貞頼が死去したことを受けてか、同年の7〜8月頃に出家して正永と号しているが、翌応永12年(1405)5月には俗名の「貞茂」名を用いて文書を発給していることから、還俗したものとみられる。この応永12年5月とは少弐貞頼のあとを継いだ氏法師丸(のちの少弐満貞)が九州探題方に帰順した頃であり、それとの関連が考えられる。
応永15年(1408)8月には弟の貞澄を筑前国の小守護代に任じ、自身は帰島して対馬三根郡佐賀に居所を定めて倭寇の取り締まりに意を注ぎ、朝鮮国との関係改善に努めた。
応永24年(1417)9月に発病し、翌年3月には死を覚悟してのことか「昌栄」の道号を称しており、4月に死去した。貞茂の倭寇禁圧の実績を高く評価していた朝鮮国は、対馬に弔問の使節を派遣している。