杉原理興(すぎはら・ただおき) ?〜1557

備後国の国人領主。名の読みを「まさおき」とも。別称を山名理興。
はじめ備後国沼隈郡銀山城主で、備後国深安郡神辺城主の山名忠勝(氏政)に属していたが、周防国の大名・大内義隆に通じて天文7年(1538)7月に神辺城を攻略し、城主となる。こののちに山名氏の名跡を襲って山名理興と名乗り、周辺の領主らを傘下に収めて勢力を拡大した。
天文11年(1542)、大内氏が尼子晴久の出雲国月山富田城を攻めた際には大内方に与していたが、大内方の形勢が不利となった天文12年(1543)4月末に至って三沢為清三刀屋久祐本城常光・山内隆通・吉川興経らの諸氏と共に尼子方に寝返り、これが大内勢崩壊の一因となった(月山富田城の戦い)。
以後は尼子氏の支援を得て勢力拡大に意を注ぎ、天文12年(1543)7月には沼田小早川氏領の安芸国椋梨にまで侵入している。このため大内氏から標的とされ、大内義隆から派遣された弘中隆兼や大内氏に服属していた毛利元就らの攻撃を受けた。
尼子氏の支援を受けてよく支えたが、神辺城は備後国南域を扼す要衝であったため大内方の圧迫も執拗で、天文16年(1547)4月には龍王山城、同年5月には勝戸山城など支城を次々と攻略されて孤立させられ、天文17年(1548)6月、天文18年(1549)4月の総攻撃には耐えるも、同年9月4日には攻略され、月山富田城に逃走して尼子氏を頼った(神辺城の戦い)。
しかし尼子氏の下でも優遇されず、大内義隆滅亡後の弘治元年(1555)に毛利元就に臣従し、神辺城に戻ることを許された。これを機として姓をもとの杉原に改めている。
弘治3年死去。一説には弘治2年(1556)の春に病死したともいわれる。