備後国深安郡の神辺城主・杉原(山名)理興は周防国を本拠とする守護大名・大内義隆に属し、大内氏が尼子晴久の本城である出雲国月山富田城を攻めた際にも従軍しているが、その最中の天文12年(1543)4月晦日、大内氏から離反して尼子氏に寝返った(月山富田城の戦い)。
この理興らの背反によって大内方は撤退を余儀なくされ、備後国南域の要衝である神辺城の喪失は大内氏にとって痛手であるばかりか、尼子勢力の拠点として機能し始めたこともあり、大内義隆は翌天文12年(1543)6月頃、安芸国西条の代官に任じた弘中隆兼や安芸国随一の国人領主・毛利元就らに神辺城の奪還を命じたのである。
しかし要害である神辺城の攻撃は難しく、備後国での尼子勢力の活動も活発であったために神辺城攻めに注力できずにいたが、それでも水面下で調略活動を行うなどして下準備を進め、天文17年(1548)に至って本格的に神辺城攻略に臨むことになった。
天文17年6月16日と18日の両日、弘中隆兼・小原隆言ら率いる大内勢や毛利元就が統括する安芸・備後国の国人領主らから成る軍勢は、神辺城に総攻撃をかけた。しかしこのときには攻略することができず、翌天文18年(1549)4月の攻撃にも耐えた。
この間の天文18年2月から5月にかけて、元就・元春・隆景の毛利父子は大内氏の本拠である周防国山口を訪問している。この頃には神辺城の支城なども無力化して攻略の目途が立っていたのだろう、神辺城の攻撃は安芸国の国人領主・平賀隆宗に委ねられていた。
元就嫡男の隆元は山口には赴かずに吉田郡山城に留守居していたが、神辺城戦線での有事に備えるためもあったのであろう。
しかし7月、その平賀隆宗が陣中で病死する。この事態を受けて隆宗の祖父・平賀弘保は、跡目を隆宗の弟の広相に継がせることを望んだが、大内義隆がこの相続に干渉し、平賀家中の反対を押し切って小早川常平の遺児である亀寿丸を隆保と名乗らせて平賀氏の当主に据えたのである。
亀寿丸(隆保)は小早川氏から大内氏への人質として山口で遇されていたが、才気があって芸能にも秀でていたことから、義隆に寵愛されていたという。
この押しつけ養子に奮起してのことか、平賀勢は隆宗亡きあとも神辺城への圧迫を加え続け、理興は抗しきれずに9月4日に城を抜け出して尼子氏の本国である出雲国へと逃れたのである。
こうして6年にも及んだ神辺城の戦いは、大内方の勝利となった。