宇喜多能家(うきた・よしいえ) ?〜1534

宇喜多久家の子。通称は平左衛門。和泉守。備前国邑久郡砥石城主。
宇喜多氏の出自については諸説あり、備前国兒島(児島)に勢力を持った三宅(児島)氏の後裔であるとする説が有力であるが、宇喜多を姓とするに至った経緯は不詳。
また、古文書における宇喜多姓の初見は文明元年(1469)5月16日付の「宇喜多五郎右衛門入道寶(宝)昌寄進状」であり、その翌年の文明2年(1470)5月22日付で西大寺に宛てて渡状を発給している宇喜多宗家が能家の祖父とされるが、それ以前の系譜も不詳である。
能家は備前守護代・浦上氏の股肱の臣として名を馳せ、戦陣においては何度も危急を救い、永正15年(1518)より表面化した赤松義村浦上村宗の内訌に際しても、終始浦上氏を援けて戦った。
大永3年(1523)春に浦上村宗が播磨国に侵攻した際にも従軍して奮戦、その様子を伝聞した管領・細川高国から名馬1匹と茶釜を贈られて称揚されるほどの勲功を挙げているが、このときの抗争で二男の四郎を失い、のちに悲嘆と老衰のために隠退して家督を嫡男・興家に譲った。
その後は常玖と号して砥石城に居していたが、浦上氏の権勢を独占しようとした浦上氏の重臣・島村宗政(貫阿弥入道)の襲撃を受け、天文3年(1534)6月晦日に砥石城にて自刃した。法名は玄仲常玖。
武略に長けただけでなく人望も篤く、「赤松家の柱石に浦上則宗あるごとく、浦上家のそれに宇喜多能家あり」と謳われた。