先祖は鎌倉時代から続いた名族・下野宇都宮氏の一族。宇都宮長房の子。名を興房とも。民部少輔。
豊前国城井谷に城館を構え、城井(きい)姓を称した。
はじめ大内氏に属していたが、弘治2年(1556)に大内氏の没落を見た豊後国の大友宗麟が豊前国に進出してきたことにより大友氏に鞍替えするが、天正6年(1578)11月の日向国耳川の合戦で大友勢が島津勢に大敗してからは毛利氏や島津氏と結び、宇都宮勢力の復興を目指した。
天正8年(1580)、豊後国東郡の田原親貫の謀叛を支持して下毛郡に下って大友勢力を討った。
天正13年(1585)から島津勢の筑前国侵攻に協力していたが、天正14年(1586)10月に羽柴秀吉の興した九州征伐軍の先鋒として毛利輝元が豊前国小倉に進出してきたとき、鎮房は動かず、翌天正15年(1587)3月に羽柴勢本隊が九州に下向して岩石城攻めを企てるに至って嫡子・朝房を派遣して秀吉に従った。
同年7月、九州征伐後の国割りに際して四国への移封を命じられたため、毛利勝信を介して本貫である城井の所領を希望して再考を願ったが、黒田孝高に宇都宮氏の本貫地を含む豊前国6郡が与えられたため、勝信の所領である田河郡赤の郷の三村に仮寓した。
同年10月に肥後国で一揆が起こり、孝高が鎮定のために出陣している隙を狙って城井一族が謀叛を起こし、鎮房は城井城を手中に収めた。剛勇を謳われた鎮房はこの戦いのときに強弓を駆使し、黒田孝高・長政父子と戦って一歩もひけをとることはなかったという。
のちに吉川広家が黒田氏を支援して和議が成立したが城井一族の存在は危険視され、翌天正16年(1588)4月、鎮房・朝房ともに黒田父子にそれぞれ謀殺された。