佐竹氏の重臣。佐竹義昭・義重・義宣の3代に亘って仕えた宿老。掃部助・安房守。
石井氏の出身であるが、養子として和田氏を継ぐ。
元亀2年(1571)7月に同じく佐竹家臣の車斯忠と内訌を起こして出奔し、佐竹氏と抗争していた陸奥国小峰城主・白川(小峰)義親に属した。このとき主君である佐竹義重に、3人の子や一族郎党を誅殺された。
天正3年(1575)1月、白川義親がその主筋にあたる白川義顕の留守を狙って白河城を乗っ取るという下剋上を起こしたことを受け、その翌月に佐竹義重が義顕を支援して出兵したが、昭為は密かに佐竹勢に内応し、先陣として佐竹勢に攻めかかり、わざと佐竹勢に取り囲まれて同陣していた義親を捕えたといい、これらの功績によって帰参を許された。
以後は内政・外交の両面に亘って重要な地位に在った。とくに天正18年(1590)以降にはその政治的役割は増大し、天正19年(1591)の九戸政実の乱や天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役などの軍役で義宣が国外に出征した際には、義宣の意向を受けて国元での家政を執行している。
文禄4年(1595)の知行割替のときも義宣の側近として在り、奉行人として事業を推進した。
慶長7年(1602)、佐竹氏の出羽国転封にともない秋田に移った。この秋田入部の際にも義宣の命を受けて現地諸将との折衝にあたり、入部を円滑に進めている。
生没年ともに不詳であるが、慶長8年(1603)には家老職から引退していたようである。