山浦国清(やまうら・くにきよ) ?〜?

信濃国葛尾城主・村上義清の嫡男。通称は源五・源吾。名を景国とも。
信濃国併合を目論む甲斐国の武田信玄の圧迫を受け、父・義清とともに上杉謙信を頼って越後国へ落ち延び、のちに上杉一族の山浦氏の名跡を相続し、越後国北蒲原郡白河荘山浦条の領主となった。
客将として上杉謙信に属し、川中島の合戦をはじめとする北信濃での戦いには父と共に参陣し、旧領回復を目指して戦った。
元亀・天正年間は徳川家康との交渉を担当。
元亀3年(1572)8月に越中国で一向一揆と戦い、天正5年(1577)には能登国遠征に従軍し、末森城を守った。
天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』によると、軍役は250人を負担している。
謙信の没後は上杉景勝に属し、天正7年(1579)には景勝より一字を授けられて景国と名乗る。
天正10年(1582)、織田信長の没後に景勝が北信濃に進出すると、信濃国海津城の城代となって川中島地方を支配したが、副将の屋代秀正が徳川家康に内通して天正12年(1584)に出奔すると国清も疑われて罷免され、召還を受けて一時は蟄居した。
天正18年(1590)の小田原征伐には景勝勢の先手として参陣した。
文禄3年(1594)における知行定納高は2千2百余石、軍役負担は173人。
慶長3年(1598)の上杉氏会津移封に従い、塩之森城6千5百石の城代となった。