赤塚(あかつか)の合戦

天文20年(1551)3月3日、尾張国内において随一の実力者と目される織田信秀が没した(没年に異説あり)。そのあとを継いだのは、嫡男の織田信長である。
信長は少年時代から奇行が多く、周りからは「うつけ者」と見られていた。そのため、織田家中においても以後の織田家の存続を危ぶむ声もあったという。
そしてその危惧が現実のものとなる。駿河・遠江、そして三河国をも支配下に収めていた今川義元が、さらに尾張国への所領拡大を目論み、それまでは信秀に従っていた尾張・三河の国境付近の鳴海城の城主・山口教継を抱き込んだのである。
教継は子の教吉を鳴海城に入れ置くとともに、尾張国笠寺砦に葛山長嘉・岡部元信・三浦左馬助(義就か)・飯尾豊前守・浅井小四郎(政敏か)といった今川氏からの援将の派遣をも得て、自らは中村に築いた砦に拠って信長領を窺った。
一家臣の反抗よりも、今川氏の有力武将による後援という事態を重く見た信長は、当時の居城としていた那古野城から天文22年(1553)4月17日に鳴海城に向けて出陣、8百の兵で古(小)鳴海の三の山に布陣した。一方の鳴海城からも山口教吉が1千5百の兵を率い、赤塚へと出張る。
これを見た信長は軍勢を差し向け、およそ10メートルという至近距離からの矢の射ち合いから始まった合戦は入り乱れた接近戦になり、矢に射られて落馬した者をめぐって両側から引き合うといった光景も見られたという。
両勢は午前10時頃から12時まで激しく戦って多くの犠牲者を出したが、結局は明確な決着がつかず、双方とも兵を退いた。
鳴海城兵もつい先日までは織田氏に属していた間柄ということもあり、最後には捕虜の交換が行われ、敵陣に逃げた馬までをも返しあったという。

しかし、今川勢の新たな拠点となった鳴海城に損害を与えることはできず、今川氏の尾張侵攻の足がかりとして、そのまま残されることになったのである。