安祥(あんじょう)城の戦い

天文4年(1535)12月の松平清康の横死(守山崩れ)、続く家中の内部抗争で松平氏の弱体化を見て取った尾張国の織田信秀は、これを好機として三河国への侵攻を企て、天文9年(1540)6月に3千ほどの軍勢を率いて安祥(松平)長家の拠る三河国安祥城に迫った。
これを察知した松平氏惣領・松平広忠は、援軍として弟の松平信康(源次郎)や藤井松平氏の松平利長らを送っており、城方は奮戦して一度は織田勢を退かせたものの、兵力に勝る織田勢の攻勢を受け、6月6日の戦いで城主の長家や援将の信康以下50人ほどが戦死し、落城した。
安祥城の攻略後、信秀は城主として長男の信広を入れ置いた。
かつて松平氏の拠城であった安祥城が織田氏の手に落ちると、佐々木(佐崎)の松平忠倫や松井の松平清定(松平信定の子)が織田方となり、矢作川以西の大部分が織田氏の勢力圏となったのである。

ところで、この安祥城をめぐる戦いには、天文13年(1544)9月とするものや、天文14年(1545)2月、天文16年(1547)とする異説もある。