布野(ふの)(府野)の合戦

安芸国の国人領主・毛利元就は、周防国の大名・大内義隆に従って尼子氏の居城である出雲国の月山富田城攻めに従軍したが、大内勢は三刀屋久祐三沢為清本城常光らの裏切りによって大敗した(月山富田城の戦い)。
元就は天文12年(1543)5月に帰還したが、その後まもなく大内義隆から、弘中隆兼とともに杉原(山名)理興の城である備後国神辺城の攻略を命じられる。この杉原理興は、大内方として月山富田城攻めに従軍していながら、三刀屋らとともに大内氏を裏切った将のひとりであった。
尼子方となった杉原理興は同年7月、大内方の沼田小早川氏の所領である安芸国の椋梨に侵攻。沼田小早川氏の当主・小早川正平は先の月山富田城攻めの撤退戦において敗死しており、その嫡男の繁平は未だ幼少であったという家中の乱れを見越したものであろうか。
備後国での勢力拡張を期す尼子氏はこの杉原理興と連携して備後国に侵攻し、天文13年(1544)3月には甲奴郡の田総で毛利勢と交戦している。そして同年7月には尼子晴久自ら尼子国久・誠久・敬久らから成る新宮党や重臣の亀井秀綱・牛尾幸清ら7千余の軍勢を率いて備後国三次郡に侵入、布野(府野)に着陣して大内方の三吉広隆が拠る比叡尾山城を攻めようとした。
この報に接した元就は、7月25日に福原貞俊・児玉就忠らに一千余の軍勢を授けて比叡尾山城の救援に向かわせた。ここまでもが尼子方になってしまうと、毛利領への進攻が容易になってしまうのである。
そして28日、毛利・尼子の両軍は布野で戦ったが、毛利軍は深入りしすぎて援将の福原・児玉とも重傷を負い、多数の死傷者を出して「布野崩れ」とも呼ばれる大敗を喫した。しかし翌29日には、戦勝気分に気が緩んだ尼子軍の虚を衝いて、三吉広隆が手兵5百騎を率いて奮戦し、大勝した。このため尼子軍は当初の目的を達しないまま、本国の出雲国に引き揚げることになったのである。