花沢(はなざわ)城の戦い

今川氏滅亡後も武田信玄に屈せず、頑強に抵抗を続けている今川氏遺臣も少なくなかった。その一人が駿河国花沢城に拠っていた大原資良(小原鎮実)である。今川義元がまだ健在だった頃、資良は三河国吉田城主だった。義元の跡を継いだ今川氏真が駿河国を失い(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)、伊豆国戸倉に退いてしまってからも資良は反武田勢力の一つとして花沢城に留まっていたのである。
信玄は2度目の駿河国侵攻戦において永禄12年(1569)12月に蒲原城を落とし(蒲原城の戦い)、次いで駿府を制圧すると、今度はその矛先を転じて花沢城攻略にかかった。信玄は城攻めを行いつつも開城勧告を促したが、資良はこれを拒否した。
永禄13年(=元亀元年:1570)1月4日から攻撃が始められた。武田勢は軍勢をつぎつぎに繰り出して攻め立てたが、城兵はよく戦って守り、激しい抵抗の末、同月下旬(一説には8日)になってようやく攻め落とすことができたという。
大原資良は陥落の直前に脱出し、遠江国の高天神城に入って小笠原氏助と合流して、さらに抵抗を続けたという。