武田信玄の駿河国侵攻戦:その2

永禄11年(1568)12月、甲斐・信濃国を領有する武田信玄今川氏真領の駿河国に侵攻したが、相模国を本拠とする北条氏が今川氏を支援して参戦したこと、同時に今川領遠江国に侵攻した三河国の徳川家康との関係が悪化したことなどのため駿河国の制圧は成らず、興津横山城や久能山城の拠点を確保したうえで永禄12年(1569)4月末に帰国した(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。
しかし信玄は駿河国の領有を諦めず、再度の侵攻を企図していた。その前段として行ったのは、敵対勢力となった北条氏の牽制である。
帰国から1ヶ月ほどを経た永禄12年6月に甲府を出陣した信玄は、北条氏が駿河国の拠点として築いた駿東郡の深沢城、ついで陣を移して伊豆国の韮山城を圧迫し、7月初頭に駿河国富士郡の大宮城を降した(大宮城の戦い:その2)。
さらには帰国したのちの8月24日に再び出馬し、信濃・上野国境の碓氷峠を越えて北条領に侵攻。9月中に武蔵国の御嶽城・鉢形城・滝山城などを転戦したのちに杉山峠(御殿峠)から相模国に侵入し、10月1日より北条氏の本拠である小田原城を囲んで城下に放火したが、北条軍は籠城したため大規模な合戦には至らなかったようである。
武田軍は10月4日には囲みを解いて甲斐国へと戻ろうとしたが、6日に三増峠で北条軍の追撃を受け、これを撃破して帰国した(三増峠の合戦)。

これらの示威行為を行ったうえで、武田軍は11月半ば以降に大宮城に兵を入れた。今回の矛先こそが駿河国であり、本格的な出陣は12月1日だったようである。西へと向けて進撃を開始した武田軍は6日には武田勝頼らの活躍で蒲原城を攻略し(蒲原城の戦い)、これを受けて12日の夜には薩埵山を守備していた北条軍が「自落」、つまり撤退したことが勝頼の書状で知られる。
この蒲原城を修復して兵站を確保した武田軍はそのまま駿府に侵攻し、奇しくも前年と同じ13日にこれを制圧した。駿府には前年の抗争後に戻ってきた今川氏旧臣の岡部正綱ら4百ほどの兵が焼失した今川館を改修して立て籠もっていたが、信玄はこれを力攻めにするのではなく、懐柔して駿府を手中に収めたという。
年が明けて永禄13年(=元亀元年:1570)1月、武田軍はさらに西へと進軍を始める。次の標的に据えられたのが花沢城であった。16日に激しい戦いがあったことが知られ、下旬には開城するに至ったが、城将の大原資良は徳川家康の属城となっていた遠江国高天神城へと退却した(花沢城の戦い)。
ついで武田軍は徳一色(徳之一色)城攻めに向かったが、在城衆の長谷川正長らは花沢城陥落の様子を見て戦わずして遠江国へ逃れたようである。信玄は接収した徳一色城を田中城と改め、本丸に三枝虎吉を、二・三の丸には朝比奈信置らを置き、自身は2月15日に清水湊に陣を移した。ここで信玄は新たな拠点(江尻城)の構築を指示し、同月22日頃に甲府へと帰還した。
この一連の侵攻戦によって、武田氏は駿河国の富士川以西の地域を領有化することに成功したのである。