『甲駿相三国同盟』と呼ばれた武田氏・今川氏・北条氏の同盟は、永禄11年(1568)12月の武田信玄による駿河国侵攻によって崩れ去った。これにより武田氏は今川氏だけでなく、北条氏をも敵に回すことになったのである(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。
信玄は北条氏康・氏政父子と戦うため、永禄12年(1569)9月、碓氷峠を越えて上野国に入り、次いで武蔵国に侵入して鉢形城の北条氏邦、さらに滝山城の北条氏照を攻め、10月1日には2万の軍勢をもって北条氏の本城である相模国の小田原城を包囲した。
小田原城では、かつて永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を受けたときと同じように、城の堅固さを活かした籠城作戦をとった。これにより武田勢は攻めあぐねて数日を費やし、ついには力攻めを諦めて撤退することにしたのである。
さきに武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟は、武田方とほぼ同数の軍勢で小田原城の後詰として出兵してきていたが、撤兵する武田勢が退路として三増峠を通ることを知って、奇襲攻撃の計画を立てたのである。
10月6日の朝、武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が、武田勢に対して一斉攻撃を始めた。武田勢の第一陣は馬場信房、第二陣は武田勝頼、さらには内藤昌豊らという錚々たる陣容である。
しかし、北条勢は裏をかいたつもりだったが、実は裏をかかれていたのである。つまり、待ち伏せの兵がいることを知った武田勢が、逆に伏兵である氏照・氏邦率いる北条勢に攻撃を仕掛けたのだった。信玄は予め2万の軍勢を3隊に分け、1隊は山県昌景率いる5千の軍勢で、志田峠の道を進んでいたが北条勢の攻撃を知るとすぐに引き返し、これが遊軍となって北条勢に襲いかかったのである。
この予期せぬ奇襲に北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。その犠牲者は3千2百余人という。
武田勢にも9百人ほどの犠牲者が出ており、殿軍を引き受けた武田方の浅利信種が戦死した。
余談ではあるが、この三増峠の合戦の後、退路を断たれた武田勢の兵が山道で迷い、翌朝、眼前に海を見た。彼らは敵地真っ只中の相模湾に出てしまったと思い込み、その場で自刃してしまったのである。しかし、波に見えたのは実はそばの花だった。
以来、その村の人たちは彼らの死を悼んで、そばを作らないことにしたという伝説が伝わる。