甲斐国では永正4年(1507)に武田信虎が武田氏家督と甲斐守護職を継承して以来、敵対する勢力を切り従えると同時に強力な権力を発揮するようになり、甲斐国統一へと向けて着々と勢力を広げつつあった。しかし国人領主の大井氏や今井氏らは容易に信虎に従わずに反発を繰り返し、隣国の駿河守護・今川氏に支援を求めた。今川氏もまた、この内訌に乗じて甲斐国への侵攻を企てていたのである。
永正18年(=大永元年:1521)2月末、今川勢が河内と呼ばれる甲斐国南域の富士川流域に侵入。その後の動向は不明であるが、8月末より河内で武田勢と交戦に及び、9月6日にはその北、大島で今川氏親の重臣・福島正成が率いる1万5千(数には異説もあり)の軍勢が武田勢を破り、この今川勢は16日には巨摩郡富田城を攻め落とし、ここを甲斐国侵攻の拠点とした。この報が伝わると、身重であった信虎夫人は武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館から要害山城へと難を避けている。
今川勢はしばらく富田城に駐留したのちに釜無川に沿って北上、躑躅ヶ崎館の西方約7キロに位置する竜地台に布陣した。対する信虎は甲府の西側を流れる荒川を防衛線と定め、10月16日に飯田河原で両軍が激突したのである。
このときの武田勢の兵力は2千ほどであったといい、兵数では明らかに劣るものの用兵と地の利をもって迎撃し、今川勢の百余人を討ち取った。これを受けて今川勢は躑躅ヶ崎館への侵攻を一時断念して兵を引き、11月10日には八代郡の勝山城に陣を移しているが、23日に再び侵攻して雌雄を決することになる(上条河原の合戦)。
なお、この飯田河原の合戦ののちの11月3日に信虎夫人は要害山城で無事に出産し、その子は勝千代と名付けられた。のちの武田信玄である。