大永元年(1521)秋より甲府へ向けて侵攻を開始した今川氏の武将・福島正成は、9月に甲斐国巨摩郡富田城を攻略したのちに竜地台に侵出して、武田信虎が本拠としていた躑躅ヶ崎館を窺ったが、武田勢はその間に流れる荒川を防衛線として飯田河原で戦い、この今川勢を撃退した(飯田河原の合戦)。
今川勢は11月10日に八代郡勝山城に入って陣容を整え、再度の躑躅ヶ崎侵攻を狙っていたが、一方の武田方も躑躅ヶ崎周辺の補強を進め、食糧や武器の備蓄などを行って今川勢の来攻に備えていた。武田方の兵力としては2千ほどであり、兵数に劣る武田方は多数の幟や旗を仕立て、将兵に似せた藁人形を数多く用意して偽装を行ったという。
11月下旬になると今川勢は再度の甲府侵攻のため荒川沿いを北上、23日の夕刻から前月の交戦場所であった飯田河原より上流の上条河原で両軍は再び激突した。
雪が降る中での戦いは夜を徹して続き、通説では武田氏の重臣・荻原昌勝が軍略を駆使して圧倒的多数の今川勢を翻弄し、原友胤(原虎胤の父)が大将である福島正成の首級を挙げ、正成以下6百余の将兵を討ち取った武田勢が勝利したとされているが、今川勢の大将の名を「福島正成」と挙げているのは後世の史書で、当時の史料には「久島」「駿河福島衆」「福島一門」などとあるだけで大将の名を明記していないこと、福島正成の死没を天文5年(1536)の花倉の乱後とする説もあることなどから疑問視もされている。
今川勢の敗残兵は富田城に逃れて越年し、翌大永2年(1522)1月14日に降伏して駿河国へ退却したという。