伊豆(いず)の乱

伊豆国は関東管領・山内上杉顕定の守護領国であったが、文明14年(1482)の都鄙合体によって堀越公方・足利政知が実質的に支配するところとなっていた。しかし延徳3年(1491)4月3日、その政知が病死した。
その以前から堀越公方家では次期家督をめぐる内訌が起きており、政知の後妻・円満院は自分の生んだ子である潤童子に家督を継がせようと企み、先妻の子で、潤童子の異母兄にあたる足利茶々丸を「狂乱」という理由で御所内の土牢に閉じ込めていたのである。
しかし茶々丸は政知の死後の混乱に乗じて牢から脱し、7月1日には円満院と潤童子を殺して家督を乗っ取った。が、政知に仕えていた家臣たちは粗暴な茶々丸に服さなかったため、伊豆国の情勢は混迷の度合いを増すばかりであった。

この伊豆国の混乱を好機として策動を始めたのが今川氏の属将で駿河国興国寺城主・北条早雲である。
当時、中央政界の幕府でも内訌が起こっており、明応2年(1493)閏4月に細川政元が将軍・足利義稙を追放して実権を握り(明応の政変)、新将軍に足利義澄を推していた。そしてこの義澄の母が茶々丸に殺された円満院であり、潤童子は義澄の実弟だったことから茶々丸を討つ名分には充分であったし、幕府とのつながりを強める好機である。また政知は早雲が属す今川氏親の烏帽子親であり、堀越公方とは関係浅からぬものがあった。こうした事情を背景に、早雲は今川氏の軍勢として伊豆国の平定に乗り出したのである。
早雲は侵攻を容易にするために上杉顕定と対立する扇谷上杉定正と通じ、明応2年(1493)10月11日に5百ほどの軍勢を率いて堀越御所を急襲した。堀越御所は城構えでないうえに不意を衝かれたため、抵抗らしい抵抗もないままに陥落したという。

茶々丸を没落させた早雲は韮山城を根拠地と定め、本格的に伊豆平定に乗り出した。通説ではこの伊豆平定は短期日のうちに成し遂げられたとされているが、実際には茶々丸に与する残存勢力の抵抗を受けており、明応6年(1497)頃までは伊豆国内では内戦状態が続いていた。深根城に拠る関戸吉信も早雲に敵対した領主のひとりであるが、早雲はこの深根城に対しては徹底した殲滅作戦を執っている(深根城の戦い)。その反面で支配下に収めた地では所領の安堵、病人への医療の施し、年貢の減免などの優遇政策を用いて在地領主や農民を慰撫することで硬軟両様を巧みに使い分け、人心を掌握することで支配域を確固たるものにしていった。
早雲の布いた年貢の減免措置でとりわけ著名なのが『四公六民』といわれる年貢率である。「公」は年貢納入分、「民」は耕作者の取り分のことを示し、四公六民では40%の年貢を納めるということになる。
それ以前の年貢率は五公五民ないし六公四民といわれており、早雲のこの税制は広く受け入れられたとされる。しかし40%の年貢を納めればそれで済んだというわけではなく、そのほかにも段銭や棟別銭などの臨時徴収、人夫役といった労働義務が課せられており、それらを年貢として換算した場合には必ずしも賞賛されるほどの優遇税制ではなかったとも見られる。しかし、それまでより軽減されたとして受け入れられた税制であったことは事実のようであり、この年貢率は北条氏領内において氏直の代まで遵守されている。

一方、堀越から逐われた茶々丸は、のちに伊豆国から逃れて上杉顕定や武田信縄を頼って武蔵・甲斐国より伊豆奪回の機会を狙っていたが、明応7年(1498)8月に早雲に攻められて自害することになる。
なお、早雲の伊豆侵攻を延徳3年とするものや、茶々丸の討死を堀越御所急襲の際とする説もある。