秋田県の仙北地方は戦国期、安東・小野寺・戸沢の三大勢力が鎬を削ったところである。天正15年(1587)春、檜山城と湊城を中心に勢力を張る安東愛季は、横手城主・小野寺義道と角館城主・戸沢盛安が不和になったのにつけこみ、盛安と組んで義道を排そうとした。ところが盛安はこのとき愛季とは連合せず、むしろ侵入してきた安東軍に戦いを挑んだのである。
4月2日、安東愛季は騎馬7百騎と雑兵を合わせて3千の軍勢を唐松岳の麓に集結させた。標的は戸沢氏支城の荒川城である。前線からの報告でそれを知った戸沢盛安は、4月5日に3千8百の軍勢を角館から進発させた。
合戦が開始されたのは4月6日であるが、その前日の5日夜半より盛安は精兵を密かに接近させ、6日の夜明けと共に安東陣を攻撃させた。不意を襲われた安東軍は大混乱に陥ったが、しだいに態勢を立て直し、果敢に応戦した。この日の戦いは夕方まで続けられ、日没と共に両軍とも兵を退いた。しかし翌日も朝から激戦を展開、結果としてこの唐松野の合戦は3日間にも及ぶ激戦となった。この合戦で安東軍は3百余人、戸沢軍に百七十余人の犠牲者が出たという。結果的には安東軍の敗退という形になった。
なお、この合戦においては軍勢集結後に2ヶ月ほど対峙し、合戦の開始を6月とする説もある。
同年9月にもこの両軍は唐松野近辺で合戦に及んだが、その最中の9月1日に安東愛季が病死。一方の戸沢軍の守りは堅固で、仙北郡北部の諸豪族のほとんどが戸沢氏に服したため、安東軍は以後、戸沢領に侵攻することができなかったという。